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第三節 東アジア文明と米・雑穀
現在、アジア稲作起源については、「完新世の環境変動に対して野生イネがどのような振る舞いを見せたか、そしてヒトはどのような文化的適応でそれに応じたか」(デジタル論文 中村慎一「中国稲作起源論」[総合地球環境学研究所「News Letter No.36」 20年5月30日])が問題となっている。
第一項 中国文明と米・雑穀
概して「小麦は米に比べてより北方的であり、温帯的であり、米はより南方的であり、熱帯的である」(栗原籐七郎『東洋の米 西洋の小麦』220頁)。そして、メソポタミア、エジプトなどで麦の生産が文明を生み出したように、中国においても、「食料の生産が、他の地域と同様、そうした『文明』の特徴の誕生につながっていった」(ジャレド・ダイアモンド゙著、倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる人類史の謎(下)』草思社、2000年、182頁)のである。
中国では、新石器時代には、「巨視的には、『黄河流域の粟栽培文化系統』、『長江中・下流域と華南地区の稲栽培文化系統』と『北方地区の狩猟・採集文化系統』の3つの文化基盤から成り立っている」(王小慶『仰韶文化の研究』雄山閣、2003年、17頁)が、ここでは、前二者を取り上げる。エジプトがナイルの賜物だとすれば、それ以上に中国は長江(副次的に黄河)の賜物だからである。
第一 米の特徴
1 稲の特徴
稲の生物学的特徴 既に1910年に栽培イネ(Oryza sativa)の染色体数は2n=24と報告されていたが、1978年には2n=24+1
の12種類の過剰染色体が同定され、遺伝子連鎖群と座乗染色体との関係が明らかにされた(Oryzabase、片山,
忠夫「イネ属植物の分布限定と探索阻害要因」『鹿児島大学南方海域調査研究報告』No.9、1986年11月など)。そして、2004年には、イネゲノム(4億からなる塩基配列、イネがイネであり続けるために最低限必要な染色体[遺伝子]の集まり)の全容が明らかになった(石川隆二「国境を越えて イネをめぐるフィールド研究」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』玉川大学出版部、2013年、70頁)。こうした染色体数やゲノム分析により、Oryzae節,Ridleyanae節,Granulatae節およびSchlechterianae節の4節に分ける見方が有力である(『世界大百科事典』平凡社)。このうち、Oryzae節に属する野生稲の1種オリザ・ペレニスO.perennisから栽培種が分化したとみなされている。
その栽培種は二種に分けられる。つまり、イネ科イネ属のイネは「現在、地球上には合わせて22種のイネが確認され」、うち20種が野生イネであり、残り2種が栽培イネであり、その栽培イネが、アジア栽培イネ(Oryza
sativa)とアフリカ栽培イネ(Oryza glaberrima[Oryzabase、農業・生物系特定産業技術研究機構編『最新農業技術事典』農山漁村文化協会、2006年など])に分けられるのである(石川隆二「国境を越えて イネをめぐるフィールド研究」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』玉川大学出版部、2013年、74頁])。野生イネ、栽培イネの特徴は後述される。
また、イネ科は「根から珪酸を吸収して体内に(植物珪酸体[silica body]を)蓄積」するので「別名珪酸植物」と言われる。この植物珪酸体は、「数ミクロンー200ミクロン」と微小で、「その形状や生産量は植物の種類や各部位によって異なり、植物間においても類似の珪酸体が多数みられる」。この中で、「機動細胞はイネ科植物の葉身にのみ存在し、その形態的な特徴から属、なかにはイネのように種のレベルまでの識別が可能」であり、「植物珪酸体は非晶質のガラス体であることから、酸化分解することなく保存性に富み、土粒子に富み、土粒子の一部となって地層中に長期間残存」し、「この植物起源の珪酸体が化石となったものを、土壌学ではプラント・オパール」という(外山秀一「プラント・オパール」」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、212−5頁])。
野生稲の特徴 稲は、「最初は雑穀の一つ」であり、「初源的作物としての稲は、水陸両用可能のような未分化の稲」(周達生「照葉樹林の物質文化」[樺山紘一編『長江文明と日本』福武書店、1987年]68ー9頁)であった。
かかる野生稲は20種あり、南アジア、東アジアなどに広く分布していた。この野生種は、@「穂の枝梗(枝分かれ)は疎に生じ四方に開展」し、「一節から車輪状に四方に分生」したり、「穂の長大なものから小型のもの」があり、A「雨季・乾季のあるモンスーン地帯に生息して」、繁殖のために「乾季に脱落して、雨季まで発芽せずに待つという休眠性」もあった(永井威三郎『米の歴史』至文堂、昭和34年、99−100頁、石川隆二「国境を越えて イネをめぐるフィールド研究」『前掲書』78頁)。
@を補完すると、 野生イネには「ノゲ(「籾殻の先端のとげ状の器官」)」も必要である。それは、「籾が落ちるときには、籾のほうが重いからタネを下にして落ちる。籾の先っぽにノゲがついているので、泥の水上に落ちたとき、風が吹くとノゲがゆらゆらと動いて、地面の下にもぐっていく」からとされている(佐藤洋一郎・赤坂憲雄「野生イネとの邂逅」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』玉川大学出版部、2013年、10頁])。
Aを敷衍すると、「雨季・乾季のあるモンスーン地帯に生息していた野生イネの種子」は、乾季に脱落して、雨季まで休眠して発芽せずに待つのである。たまに降る雨で発芽しては、渇水状態では枯死するからである(石川隆二「国境を越えて イネをめぐるフィールド研究」『前掲書』78頁)。
さらに、「栽培イネに比べて多様な遺伝的性質をもっている野生イネは、今後の気候の変化にも対応できる環境適応性」(石川隆二「国境を越えて イネをめぐるフィールド研究」『前掲書』80頁)を帯びている。
2 野生稲の栽培
野生イネの栽培 その野生イネを採集していた人類がそれを栽培するようになった時期は、「稲作農業がはじまる」時期(6千から6千5百年前)より「さらに2000−3000年さかのぼる」(ドリアン・Q・フラー「植物考古学からみた栽培イネの起源」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』玉川大学出版部、2013年]191頁)のである。
野生イネ栽培化とは、@穂が落ちると困るので、「タネが落ちないいうな突然変異を起こした野生イネを見つけだすと、それを大切に選んで」、「落ちな」い穂を栽培する事であり(佐藤洋一郎・赤坂憲雄「野生イネとの邂逅」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』玉川大学出版部、2013年、13頁])、A「イネの祖先である野生種が、生産性を高め、人間が手をかけて育てる環境に適応する別な種類の植物に進化する過程のことであり」、「農耕という人間の営みが、時間をかけて『栽培植物』という新しい植物を生んだ」(ドリアン・Q・フラー「植物考古学からみた栽培イネの起源」前掲書195頁)過程だ
とも言えよう。
栽培イネの野生祖先種 野生型から栽培型へ進化する原動力は、@突然変異、A「様々な遺伝的な変異の有無」の二つがある。栽培稲には「インディカからジャポニカまで様々なものがあった」が、野生稲は「インディカにもジャポニカにも属さない」のである。「野生稲が栽培化される過程で、徐々にインディカとジャポニカに分化してきた」ようだ(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』73頁)。この結果、米は「現在われわれが常食するやや円形で日本の風土に適したジャポニカ」と、「細長い、東南アジア一帯で作られているインディカ」に大別されている(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書頁]22頁)。
これを、アジア栽培イネ(Oryza sativa L.)の野生祖先種という観点から言うと、「育つ環境によって」、「毎年決まった季節にモンスーンによってできる水たまりや氾濫原で育った一年草(Oryza
nivara)」(これは「インドなどの熱帯モンスーン地域に分布することが多」い。ジャポニカとは別の「南アジアの種」[インディカの亜種]の起源と関連がある」)と、「年間をとおして水のたまる場所に育った多年草(Oryza
rufipogon)」(「東南アジアと中国南部の河川や湖に分布することが多」く、「東アジアの栽培種[ジャポニカの亜種]の原種」)との二種に分かれるということになる(ドリアン・Q・フラー「植物考古学からみた栽培イネの起源」前掲書195−6頁、Oryzabase)。
東アジアに行なわれているイネの栽培は、「モンスーン気候に適応した野生イネの登場によって可能にな」り、「祖先種はオリザ・ルフィポゴン」(石川隆二「国境を越えて イネをめぐるフィールド研究」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』玉川大学出版部、2013年、71頁])、つまりジャポニカの亜種の原種である。
「現在の中国の品種にはジャポニカに類する粳(こう)と呼ばれる品種群のほかに、インディカに属する?(せん)と呼ばれる品種群があ」り、「粳はおそらく長江流域で生まれたジャポニカの末裔」であり、「?(せん)はあとになってから、インディカの起源地である熱帯から渡来してきた可能性が高い」(佐藤洋一郎「そこに稲作の故郷を見た」前掲書85頁)のである。
3 インディカとジャポニカ
インディカとジャポニカは別祖先 「DNAは親の性質を子に伝達する働きをもった化学物質(アデニン[A]、ヒチミン[H]、シトシン[C]、グアニン[G]の4塩基)」であり、「生き物の生存に必要に必要なあらゆる物質をつくる設計図の役割も担っている。岡彦一氏のインディカ、ジャポニカがDNAによる分類と一致したことは、「インディカとジャポニカという二つの品種のグループが、稲の進化の道筋を反映した分類であること」を示す。さらに、生物の二つの遺伝情報(核の情報と細胞質の母系情報)のうち、後者の細胞質の「葉緑体DNAの情報」を通して、「インディカとジャポニカの母系を調べる」と、「ジャポニカ品種のほとんどが欠失をもたないのに、インディカのほとんどが欠失をもつ」ことが判明し、「インディカとジャポニカが別の祖先から来た」ことを示唆した(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』101−109頁)。
稲の品種には、「細長くぱさぱさ」型、「丸くねばねば」型、「細長くねばねば」型、「丸くぱさぱさ」型もあって、インディカの如く「細長くぱさぱさ」型、ジャポニカの如く「丸くねばねば」型、と単純に区分できないのである(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』109頁)。両者は、「いろいろな面で違いを見せている」(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』128頁)のである。
ジャポニカの特徴 ジャポニカには、温帯ジャポニカ(「中茎が短い、胚乳が崩壊する、籾が丸い」、「背が低く、葉も穂も短い代わり穂の数が多くなる」穂数型)と熱帯ジャポニカ(「中茎が長い、胚乳が崩壊しない、籾が細長い」。「背が高く、穂や葉が長く、一株あたりの穂が少ない」穂重型)の二種がある(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』144−5頁)。
「明治以後、日本の稲の品種は増産のかけ声のなかで穂重型(熱帯ジャポニカ)から穂数型(温帯ジャポニカ)へと大転換を遂げつつあった」。温帯ジャポニカの稲は、中国長江北側、朝鮮半島、日本、台湾、米国カ州など「世界のごく限られた地域」にしか分布しない。熱帯ジャポニカは「熱帯の島々から琉球列島を経て九州に達した」が、「最近では、かつて日本に熱帯ジャポニカがあったことを示す直接的な証拠も見つかりはじめている」(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』144−151頁)。
温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカ プラントオパールの形によって温帯ジャポニカ(水田稲作を代表とする集約的な稲作に支えられた稲、朝鮮半島経由、弥生時代に普及)と熱帯ジャポニカ(焼畑を代表とする粗放な稲作に支えられた稲、縄文時代伝来の粗放稲作)を区別」できる。藤原宏氏によると、「平安時代より前の水田跡からは熱帯ジャポニカに由来すると考えられるプラントオパールが出土」し、「最近では、縄文土器の胎土から稲のプラントオパールが検出」され、「多くは熱帯ジャポニカの稲由来のもの」(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』152頁)である。「熱帯ジャポニカが温帯ジャポニカに先立って西日本にはいいていた可能性もある」(『福島県の歴史』山川出版社、1997年、20頁)のである。
ジャポニカ長江起源説 長江中・下流域で生れたジャポニカが熱帯ジャポニカだったのか、それとも温帯ジャポニカだったのか」、まだ確証はない。中国では「昔から?(せん)と粳(こう)と呼ばれる二つの品種のグループ(インディカ、ジャポニカ)が知られてき」ており、長江の中・下流域で生れた稲が粳=ジャポニカの仲間であるなら、「?(せん)はどこかよそから運ばれたものということになる」。「?(せん)と粳とはかなりはっきり、インディカとジャポニカとに対応」(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』153−163頁)している。
こうして、インディカ、ジャポニカの両方が長江の中・下流で生れた。游修齢は、河姆渡遺跡の出土米の7割がインディカ、3割がジャポニカとした。しかし、佐藤洋一郎氏は、「もしインディカとジャポニカが違った祖先からきたということになれば、ジャポニカだけが長江で生れたという・・仮説もまた生きてくる」し、この仮説の方が自然であるとする。氏は、「他殖性をもち、頻繁に自然交配する野生稲」が「インディカ型とジャポニカ型」に分かれ続けることはありえないので、長江で野生稲がインディカとジャポニカに分かれるとは考え難いとして、ジャポニカ長江起源説を主張するのである(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』日本放送出版協会、1996年、166−8頁)。
4 栽培イネの多様性・利点
栽培イネの多様性 栽培イネの多様性においては、品種の多様性と、農法の多様性がある。
まず、品種の多様化については、ハーラン(Harlan.J.R.:Agricultural Origins:Centers
and Noncenters.Science,174,1971)が適切に指摘している、つまり、彼の栽培植物起源論によると、@「紀元前7000年の初期の農村が分布するイランのデ・ルラン平原からトルコ東南部・ヨルダン南部高地に及ぶ弧状地帯の丘陵地斜面で、「大麦、一粒小麦、エンマー小麦、エンドウ、ヒラマメ、アマなどが栽培化され、羊、山羊、豚などの家畜化が並行した」が、「現在この地域で栽培される大麦の変異は少なく、また一粒小麦やエンマー小麦はほとんど栽培されて」おらず、「一粒小麦はトルコで、エンマー小麦は旧ソ連、ユーゴスラビア、エチオピアおよび南インドで栽培され、・・大麦もエンマー小麦もエチオピアに最も豊富な変異がみられ」、A「一般に祖先野生種が広く分布し、進化にじゅうぶんな時間と空間をもって広く分散している古い作物は、多くの栽培化の場所をもつ無センター作物」であり、B「多様性のセンターには膨大な変異体を蓄積しているようであるが、作物はかなり古いものであること、作物を栽培した人間が作物と同様に多様であること、さらには両者が複合体を形成している」のであり、「特に、多様性の第2センターは、人間によってつくられた多様性があることに注意」すべきであり、「アジア稲もこのような作物である」(和佐野喜久生「稲作の江南起源説」」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年]161−2頁)ということである。
そして、「自然に発生する突然変異は温度の急変、宇宙線の影響、栄養条件の変化等によって誘発されることも認められている」が、「米の大きさ・品質・分蘖(ゲツ、ひこば)の多少・稈(わら)の長短・強剛性・成熟期」などの「関与制量遺伝子」が「一つ突然変異によって同一方向に変化して行けば、あたかも下界の影響で量的に遺伝的変異(適応)が起こったような現象を呈する」(永井威三郎『米の歴史』至文堂、昭和34年、112−3頁)とも言われる。
次に、稲作農法の多様性をみると、イネ栽培地は、「北東アジアの温帯地域(緯度40度以北)に見られる管理のいきとどいた灌漑設備のある水田から、熱帯のデルタに見られる深さ数メートルの水中までと多様で、かつ海抜0メートルから2000メートル以上のヒマラヤの一部(ネパールと雲南省)までと、幅があ」り、「こうした幅ひろい環境で栽培されるため、イネには地域ごとに多様な生態型が存在する」(ドリアン・Q・フラー「植物考古学からみた栽培イネの起源」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』玉川大学出版部、2013年]206頁)のである。
そして、イネと水との関係から多様性を見ると、「水田による湛水栽培」、「モンスーンの雨季の天水を利用した焼畑」、「真水のすくない海岸地帯においては貴重な水を効率よく利用する潮汐灌漑」が行なわれる(石川隆二「国境を越えて イネをめぐるフィールド研究」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』玉川大学出版部、2013年、92頁])。つまり、イネと水との関係から稲作法が多様となるのであり、「人工的湿地(水田)、モンスーンの降雨や川の氾濫を利用するいわゆる天水田、熱帯の山岳地でおこなわれている焼畑農業」となったのである(ドリアン・Q・フラー「植物考古学からみた栽培イネの起源」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』201頁])。こうして、「中国の初期の灌漑を使用するかなり集約的な稲作」とか、「南方にひろまった集約的でない天水による稲作」などの多様性が展開し、「インドでは、集約的でない天水による稲作が高度な灌漑設備にじょじょに置きかわることで、降雨のすくない南部でもイネを栽培し、人が住めるようになった」(ドリアン・Q・フラー「植物考古学からみた栽培イネの起源」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』207頁])のである。このように、地域に拠って多様な展開があったが、歴史的には天水田・焼畑が最初であろう。
栽培イネの利点 栽培イネでは、「脱粒性は消失し」、数千年かけて「種子の一部が次代にのこり、やがて集団そのものが非脱落形質をもつようになっ」ているのである(石川隆二「国境を越えて イネをめぐるフィールド研究」『前掲書』78頁)。数千年かけて「種子の一部が次代にのこり、やがて集団そのものが非脱落形質をもつようになっていった」(石川隆二「国境を越えて イネをめぐるフィールド研究」『前掲書』78頁)のである。
さらに、甲元真之氏は、栽培化の利点として、@一時的な気候冷涼化が野生ジャポニカを「一年生草本に変化」させたこと、A「夏のモンスーンの縮小が生育期間の制限を生み、(「種の保存の原理」が作用してかえって)胚乳の増大を引き起こした」と指摘している(宮本一夫『中国の歴史』93頁)。
5 水稲の長所
水田の連作障害対処 食料生産システムとしての水田稲作は、連作可能性と高生産性(余剰生産力)の二つを特徴としている(宇田津徹朗「イネの細胞の化石(プラント・オパール)から水田稲作の歴史を探る」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』玉川大学出版部、2013年、167頁])。
前者の特徴である連作可能性とは、概して作物を同じ畑で連作すると、連作障害が発生して収量が減少するという問題を克服して、連作を可能にするということである。この点、焼畑では、「草木を焼きはらった土地で数年間イネを中心に作物を栽培したのち、7年から10数年の休閑期間をおき、再生した森を再び利用して作物栽培をくり返す」(佐藤雅志「栽培イネと稲作文化」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』玉川大学出版部、2013年、143頁])ように、休閑期をもうけて、連作弊害に対処している。しかし、これでは、生産性が低下する。これに対して、水田稲作では、湛水により、@有害な化学物質(硫酸イオンや塩化物イオン等)が残らないので塩害が生じない事、A水や草肥が養分を補給するので、窒素養分などの不足は生じないこと、B水田雑草を抑草する事などの効果がある(佐藤雅志「栽培イネと稲作文化」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』玉川大学出版部、2013年、154−5頁]、栗原籐七郎『東洋の米 西洋の小麦』73頁など)。
Aを補完すれば、「灌漑水による有機物質の発酵分解に基づく無機質化作用は、水田肥料として草肥を重要のものたらし」め、この「草肥は『刈敷』ともいわれ、春期に山野の野草あるいは木の若葉などを家畜または人の足で田に踏み込むのであるが、水田では比較的早く発酵して肥料分とな」り、日本でも「水田に緑肥としてれんげ草が多く利用」され、この草肥は「中国でも古くから行なわれていた」のであった。この点、「ヨーロッパの畑作農業では、草は直接畑に敷き込まれる前に、一応家畜の飼料とな」るのであった(栗原籐七郎『東洋の米 西洋の小麦』75−6頁)。
そして、冬期休閑によって、「地力の回復」のみではなく、「冬期間の風乾」による「水田土壌」の乾土化で「有機質を蓄積」し、「風化後湛水されるとアンモニア態窒素を生成」した。この点では、冬の乾田は「湿田よりも風化作用および腐食化作用に有利」であった(栗原籐七郎『東洋の米 西洋の小麦』76頁)。
この結果、「農家の経験及び長期にわたる農学的圃場試験の成績」は、「耕地を水田状態にして水稲を栽培すれば無肥料で数十年継続しても収穫水準は大して減少」しないことになるのである。それに対して、「畑状態で小麦大麦等を連作すれば数年ならずして収量は激減し継続の価値がなくなる」から「輪作は絶対必要であり単作すれば休閑が必然になる」(永井威三郎『米の歴史』至文堂、昭和34年、123頁)
Bを敷衍すれば、「イネは年降水量およそ800mm以上の地帯を適地とし、全生育期間に要する積算温度は4,000℃であ」り「イネはその栽培に高温と多湿とを要求」(この点、コムギは「800−250mmの地帯を適地とし、かつ2000℃で足り」「耐寒性が強く、湿潤を忌んで乾燥を好む」)するために、「イネの生育が旺盛になると同時に、雑草の生育もまた旺盛にな」り、「イネと雑草とは、土壌中の水分や栄養分について甚だしく競合することになり、どうしても雑草の除去、どうしても中耕除草という農作業が必要になってくる」(飯沼二郎「世界農業史上における古代パンジャープー早地農業の位置について」『人文学報』20号、京都大学人文科学研究所、1964年)ということである。湛水はその雑草繁茂の抑制に一定度寄与しているということである。
さらに、連作障害を防ぐために、農民は、リスク軽減のために多品種栽培を自然に行なうようになるのである。例えば、ラオスでは、「ルアンナムターからポンサリへの道」では、「焼畑に栽培されているイネは雨不足による影響をうけやすいので、穂が出てくる時期が異なる複数のイネ品種を植えること」によって「その時期の減収のリスクを回避」したり、「さまざまな特性をもった品種を植えること」によって「虫や病気による減収のリスクを回避」(佐藤雅志「栽培イネと稲作文化」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』玉川大学出版部、2013年、147頁])しようとしていた。こうして、焼畑農民は「集落や民族のあいだで交換したさまざまなイネ品種を栽培することで、天候の不順や病虫害による減収のリスクを回避」(佐藤雅志「栽培イネと稲作文化」前掲書147頁)していた。
水田稲作の高生産性 後者の特徴である高生産性に関して、一粒あたり生産性、一株あたり生産性、一定面積あたり生産性などの指標がある。これらを混同する場合があるが、しっかりと区別する必要がある。
『農業統計用語辞典』(農政調査委員会編、昭和50年、183頁)によると、水稲の収量構成は、@1穂当り全粒数77.3粒で、A1株当り全穂数18.8本のうち1株当り有効穂数18.6本(1437粒)であり、B1m2当り株数19.7株の有効穂数は366本であるから、1m2当り有効穂数366本の全粒数は28,300粒となる。
宇田津氏は「イネは一粒の種子から2000粒に増えるほど生産性が高いため、水田稲作は農民だけでなく農業に関係のない多くの人口を支える多くの人口を支えることが可能な『余剰生産性』をそなえている」と指摘する(宇田津徹朗「イネの細胞の化石から水田稲作の歴史を探る」前掲書167ー8頁)。これは、一粒の種子が、一株となるから、誤差はあるが、おおむね上記1437粒に照応していよう。佐藤洋一郎氏も、1反=10アール(1アール100u)=300坪の田に植えられるイネは、2万株であり、1株のイネは1000粒の種子をつけるので、10アールの田にある米粒は2000万粒となるとする(佐藤洋一郎『稲の日本史』151頁)。現在でも多収穫品種という米の中には米一粒で1000粒以上の米を実らせるものもあるのである(北陸農政局HP)。
徐朝龍氏は、乾燥地帯農耕の代表的な作物である小麦や大麦などは一粒を撒いて成熟した時にせいぜい十数粒くらいを増やすが、稲の場合は一粒だけで100粒近くも回収でき」、「栽培技術の複雑さと作業に投入された労働力に比例して、ほかの作物より確実な倍増収穫が得られることこそが稲作農業の最大のポテンシャリティ」であり、「稲は広域、大規模、かつ集約的な栽培が可能であり、しかも余剰品の備蓄が比較的容易なので、栽培活動が小さな自然災害などに遭ってもそれほど大きく影響されず、長期にわたる安定生産が保証される」(徐朝龍『長江文明の発見』51頁)と指摘する。これは、一粒ではなく、一穂当りの全粒数であり、上記77粒余に照応している。
この点、『ブリタニカ国際大百科事典』は一穂当りの全粒数を示していて、米は、「一穂に数十個から百数十個の籾をつけるが、穂の大きなものでは一穂に300個以上の籾をつけるものがある」(『ブリタニカ国際大百科事典』10、ティビーエス・ブリタニカ、1995年)とする。
アダム・スミスは、『国富論』(竹内訳、第二巻、23−4頁)において、「米は小麦に比べて生産力が高い。米田は最も肥沃な小麦に比してはるかに多量の食物を生産する。一ヶ年二毛作にて毎回30−60ブッシェル(イギリスで1ブッシェルは2219.36立方インチ=約36.3677?=36000cm3)は米田1エーカー(約1224坪=約4反)普通の収量と言われる。それゆえ、米作は小麦よりも多量の労働を必要とするけれども、この労働を凡て維持し得た後には小麦の場合よりもはるかに大なる余剰が残存するーこの大なる余剰から地主に帰属する分前も小麦算出国に比すればはるかに大である」(栗原籐七郎『東洋の米 西洋の小麦』119頁)と指摘する。
このように、米の高い生産性が確認されよう。
収穫率 小麦の生産性には、メソポタミア時代から、「単位播種量当たりの収穫量」とか、「一粒の穀物から幾粒の穀物がとれるか」とされる「穀物収穫量の播種量に対する倍率」という指標があった。これは、麦作開始以来、優良な種子を選択するという習慣がもたらしたものである。メソポタミアでは、収穫率は50−100と高かった。都市国家時代末のラガシュ直営地の生産性(大麦)は76倍である(前川和也「古代シュメールにおける農業生産−ラガシュ都市を中心として−」『オリエント』Vo19ー2・3、1966年)。メソポタミの方が後述の古代・中世ヨーロッパの収穫率よりはるかに豊かであったようだ。
古代エジプトでも、森本公誠氏は、平均収穫量を15と推量し(『初期イスラム時代エジプト税制史の研究』岩波書店、昭和5年、385頁)、アシュトールは、平均収穫率が10と推定している(E.Ashtor,A social and economic history of the Near East in the middle age,Berkeley,Los Angeles,London,University of California Press,1976)。サワード(イスラーム時代にサワード[黒い土地]と呼ばれた、チグリス,ユーフラテス川下流の肥沃平野で、ウマイヤ朝・アッバース朝時代の有力穀倉地帯の一つ)については、柳橋氏は、「サワードがイスラーム世界有数の肥沃な農業地帯であったこと」を考慮すると、サワードの平均収穫率は10−15とみてよいとする(柳橋博之「8世紀サワードにおける小麦の収穫率を算定する試み」『イスラム世界』60号、2003年3月)。これは、盛期のメソポタミア麦作の収穫率に比べて、かなり低いものであある。
やがてこの収穫率は、農地を小作として貸し出したり、使用権などを売却する場合、価格設定基準が必要になって、長く使用されてゆく。これは麦作普及とともに、ローマ帝国を経て、十分一税の課税根拠(10倍の収穫を生めば、十分の一税は播種量に等しくなるという考え)に転用された。ローマ農業における小麦の収穫率は4倍ー10倍と「見做すのが最も安全であろう」(馬場典明「ローマ農業の生産性」上『古代文化』古代学協会、49−2、1997年)とされている。
中世ヨーロッパでは、生産性指標として、土地面積当たり収穫量(土地生産性)、土地面積当たり播種量(労働生産性)とならんで、この収穫率(穀物生産性)が19世紀まで用いられた。それは、収穫率は「土地や労働ではなく、穀物そのものに重点を置いた方法」であり、「当時の人間が過少消費と栄養不良の中で、収穫のうちでどれだけを消費してよいかを、絶えず知りたがっていたからである」とされている(森本芳樹デジタル論文「収穫率についての覚書」[『比較史の道』創文社、2004年に所収])。収穫率は「中世初期について三ないし四という数字が妥当であるという所説は適切」(佐藤彰一「比較史の現在」[『創文』466号、2004年7月])とされている。そして、「中世盛期の3−4から出発して、18世紀にはイギリスを中心として達成されてくる10以上へという、収穫率の全般的上昇を明確に見て取れる」(森本芳樹前掲論文)とされている。
当然、麦や米の種子の選択の場合にも、優良種子を選定するという点では中国農民もメソポタミア農民と同じであったから、こういう粒の生産性という考えはあったはずである。例えば、紀元前一世紀に氾勝之が著した『氾勝之書』(岡島秀夫ら訳、農村漁村文化協会、昭和61年、38頁)の「6 種子の選択と貯蔵」では、「6.1 どのようにして小麦の種子をえらぶか:小麦が熟すときよく観察しなさい。大きくて、ぎっしりつまった穂を取りなさい」とし、「6.1.1 禾(あわ)の種子をどのように選ぶか:丈が高くて大きな穂を取りなさい。一番上の節を切りおとし、束にしていくらか高い所で乾かしなさい。このような種子から育った作物は、決して失敗しない」としている。
現在でも米の収穫率という考えは踏襲されているようだ。例えば、1958年時点で米と麦の収穫率が算定されていて、日本の米は110−144倍に対して、ベルギーの小麦は20倍、英国の小麦は15倍である(加用信文「現在における播種量・収量の比」[山根一郎『日本の自然と農業』農山漁村文化協会、1974年、58頁])。なお、江戸時代の日本の米の収穫率は30倍で、1500年ー1820年ではフランスの小麦の「収穫率は6.3倍」で、同じ頃にイギリスの小麦は7倍とも言われる(特定非営利活動法人『地域に根ざした食・農の再生フォーラム』のHP)。
このように、収穫率という観点からも、「コメというのは小麦や粟・稗などの雑穀と違ってきわめて生産性の高い穀物」(稲盛・梅原対談「古代文明が語りかける」[稲盛和夫・梅原猛編『良渚遺跡への旅』PHP研究所、1995年]18頁)であることが確認されよう。
稲作の地域差 中国稲作には、「揚子江の中流域、下流域における水田を中心として稲だけを栽培した稲作」と、「黄河・淮河流域における雑穀の畑作と一緒に行なった稲作」=「雑穀栽培型稲作」(黄強「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」前掲書61−2頁)とされている。
しかし、これを稲作の二類型とする見解もあるが、「雑穀稲作」こそが基本であり、立地条件で水田単作を可能とする地域があるということに過ぎない。
第二 長江文明ー米
1955年から1996年頃まで「中国の揚子江の中・下流域、珠江流域、雲南省、及び黄河・淮河流域などで、約120カ所の新石器時代に属する稲作遺跡(炭化した稲殻・稲米、「廃棄された籾殻の堆積」、「建築用泥土の混入材」としての籾殻・稲藁、土器表面に残った籾殻・稲藁、土器混入材としての籾殻、副葬品としての稲殻・稲束)が発見」された。発見場所は、北緯37度以南の「太湖をめぐる揚子江の下流域」(36カ所、6−7千年前の河姆渡文化、5−6千年前の馬家浜文化、4−5千年前の良渚文化の三種の文化系列、「稲栽培を特徴」とする)、「洞庭湖・?陽湖を中心とする揚子江の中流域」、「揚子江上流の雲南地域」、「黄河・淮河流域の黄淮平原」及び「南方の広東、福建、台湾地域」の5地域である(黄強「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」[諏訪春雄・川村湊編『アジア稲作文化と日本』雄山閣、平成8年、35−6頁])。
まず、長江の稲作から考察してみよう。
1 長江の自然
土壌蓄積湿地 長江下流域は、「運んできた大量の泥や砂」で「南北両側の洲が形成」され、潟湖となり、やがて「この潟湖は太湖を中心とする多くの湖や沼、沢に変化」し、「川と湖の間』に広大な水田が造成された。長江中流域では、「三峡の東を出ると、地勢が急に低くなり、河の水が溜まって多くの湖や沼沢をつくり」、「洞庭湖、洪湖、?陽湖などが形成され」、かつ「もたらした大量の土砂の長年にわたる堆積によって、湖の間、広い湖や沼の平原」であり、それらの縁辺は「低い山と丘陵」である(黄強「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」前掲書48−9頁)。
アジアでは、「太平洋またはインド洋からの季節風の吹きおくる水蒸気は大陸東斜面につき当たって雨となり河川となり、その流域に沖積平野」、「東アジアの水田地帯」をつくり、「この河川のつくった土壌の生産力の蓄積と、年々同じく河水が運搬する植物栄養分によって数千年にわたって米を生産しつづけたきた」(栗原籐七郎『東洋の米 西洋の小麦』東洋経済新報社、昭和39年、7頁)のである。
長江の中、下流域は、「全体には低湿地帯であるが、細かく見ると低湿地と微高地が入り混じった複雑な地形をしている」(佐藤洋一郎「そこに稲作の故郷を見た」[稲盛和夫・梅原猛編『良渚遺跡への旅』PHP研究所、1995年]82頁)。「水生植物である野生稲は低湿地を好むが、そうした低湿地は栽培には必ずしも都合のよい場所ではない」し、「微高地には森が広がり、ここも栽培の適地ではなか」く、「最初の稲はおそらく低湿地と微高地の境目ーつまり森にも湿原にもならなかった、生態的には不安定な土地ーに成立」(82−3頁)したようだ。「森や水生植物が生い茂る低湿地は生態的に安定で、多年生の植物が長く一ヶ所に優占する」から、「こういう場所には種子で繁茂する一年生の植物はなかなか侵入でき」ず、「最初の稲作が、低湿地と微高地の狭間で始ま」らざるを得なかったからである(佐藤洋一郎「そこに稲作の故郷を見た」[稲盛和夫・梅原猛編『良渚遺跡への旅』PHP研究所、1995年]83頁)。
栽培有利な下地 寒冷化によって、水位低下し「やや乾いた土地ができ、草原に変わってゆ」き、「森は移動し、空いた土地は草原とな」って、こうした草原は「大森林などに較べるとはるかに開墾が容易であり、原始的な稲作の場としての条件が整っていた」(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』169ー170頁)ということも留意されよう。なお、概して米が繁茂する草原でその栽培が試みられるから、草原の有利性が発揮されるのはその米栽培の増加の過程ということであろう。草原であることは、米栽培の着手初期の有利性ではなかろう。
こうして、長江の中・下流域付近では、前5000年頃に稲の栽培が始まり、「最初のうちは、狩りと採集の補助手段に過ぎなかった稲作も、時間とともに発展し、やがて生産の大きなウェイトを占めるようになる」(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』170頁)のである。「長江下流域の浙江省余姚(よよう)市河姆渡遺跡で紀元前5000年頃の多量の稲籾が発見され」た。さらに、「同じ紀元前5000年頃の浙江省桐郷市羅家角(らかがく)遺跡でも炭化米が発見され、栽培イネの証拠がさらに増加」(宮本一夫『中国の歴史』講談社、2005年、
87頁)している。
「黄河流域が雨量の少ない乾燥地だったのに対し、長江の中下流域は、日本と同じモンスーン地帯で、年間降水量は1500ミリをこえ、年間平均気温も15度cを上下」し、「ここでは稲作が農業の中心を占める」(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書18頁])
長江流域では「豊富な淡水資源と森林植物および動物資源に恵まれ、食糧生産の段階に入る前には漁撈と狩猟採集が人々の生活を支える主要な経済形態であった」、これが「1万数千年以前に起きた・・栽培稲の誕生に、さまざまな意味で下地を用意していた」(徐朝龍『長江文明の発見』35頁)のである。
2 長江で野生稲栽培が始まった人為的事情
稲生存の限界地域 「数千年ないし1万年前」、長江の下流域や中流域には「野生稲が生えてい」て、現在でも仙人洞遺跡、吊桶環遺跡では野生稲が存在していた。しかし、「野生稲が群生していたはずの華南地方(広東省、広西壮族自治区など)や雲南地方では、紀元前4000年を越えた稲作農耕文化が発生しなかった」ように、「野生稲は稲作が発生する前提条件ではあるが、決定的な条件ではなかった」(徐朝龍『長江文明の発見』41頁)。
この点、厳文明氏は、「R.ビンフォードの農業起源に関する『周辺理論』やJ.ハーランによる小麦栽培の起源の仮説」を踏まえ、「稲の栽培が野生種本来の分布圏内に始まったのではなく、その存在が限られていた周辺地帯にのみはじめて発生が可能だった」とした(徐朝龍『長江文明の発見』42頁)。つまり、@「彼は、まず栽培稲の直接の祖先となる普通野生稲(O.rufipogon)が熱帯多雨地帯に集中している傾向に注目し、その分布が北緯24度以南にほぼ限られ、しかもその北限が一月の最低温度が摂氏四度の等温線と基本的に一致することを重要視」し、「普通野生稲のこうした越冬耐寒能力の弱さは温帯の長江中、下流域をその分布の周辺地帯として決定的に性格づけ」、A熱帯雨林地域の「普通野生稲が群生する長江以南の華南地帯」では、「天然の食物資源が豊富にあり通年にわたって食用に満足するように採集できていたし、野生稲も各所にあったため、人間がそれらをわざわざ栽培繁殖する必要はまったくなかった」ことを主張した(徐朝龍『長江文明の発見』42頁)
稲栽培の特定地域 安田喜憲氏は、森と湿地とのハザマを強調する。前8000年に揚子江下流の河姆渡や羅家角、さらには中流域の彭頭山で稲作が始まる。ここでも、「カシやシイそれにクスなどの常緑広葉樹の深い森」、「林緑に広がる揚子江流域三角州の湿地草原」、「中流域の湖沼地帯の湿地草原」を背景に稲作が開始された(安田喜憲「農耕の起源と環境」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』(講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、123頁])。
初期稲作農耕を誕生させたものは、「森と湖沼・湿地草原という異質の生態系のはざま」であった。つまり、華北で、「アワを中心とする農耕がマツとナラの針葉樹・落葉広葉樹の混合林と、乾燥したヨモギ属を中心とする森林ステップのはざまで誕生」したが、江南では、「稲作農業は、カシ類やシイ類を中心とする常緑広葉樹の森とイネ科やガマ属などの生育する湿地草原のはざまで誕生」(安田喜憲「農耕の起源と環境」前掲書123−4頁)したというのである。
このように稲作農業が森と草原のはざまで成立したのは、米栽培の初期では、米のみで生活することはまだ無理であったから、森の食料などにも補完される必要があったゆえに、当初の米栽培地域は、森が歩行範囲にある草原・湿原などになるということであろう。
食糧危機 では、なぜ森と湿地のハザマで稲作をはじめたのか。何が稲作を促したのか。これに関して、厳氏は長江特有の食糧危機を指摘する。つまり、厳氏は、、「年間を通じて四季の変化が鮮明である長江流域では、状況は華南地域のそれとは大きく異な」り、「長くて厳しい冬には、寒冷かつ乾燥しており、ほかの季節のような食糧の確保は難しく、狩猟活動による動物も確保され」ず、「急速な人口増加という危機に常に直面」したとする(徐朝龍『長江文明の発見』43頁)。そこで、長江流域の人々は、「さまざまな試行錯誤の中、採集対象の中で、野生稲が貯蔵に優れているという習性を次第に認識し、草地と湿地の中間、最も湿った部分でそこにあった野生稲を手なずけ始め」、「次第に栽培を一つの生産行為としてシステマテックに確立」(徐朝龍『長江文明の発見』43頁)する。
こうして、「一万数千年以前に、長期にわたる寒冷と乾燥の気候のもと、長江中、下流域で人類の運命を大きく変える人間と野生稲とのこのような出会いが、やがて稲作農業へと発展し、食物獲得手段を狩猟、漁撈および採集活動に頼ってきた人々の生活パターンを決定的に変容させ」たいうのである(徐朝龍『長江文明の発見』43頁)。
高生産性 では、こうした食糧危機の中で稲作が選択されたのか。これに関して、佐藤洋一郎氏は米の高生産性に着目する。つまり、そして、前5000年以後、一番暖かかった長江の中・下流域が再び冷えてゆくもかかわらず、一つの茎に多くの穂を実らせる米が、豊かな植物知識をもった当時の人々に注目され、選別されていった。つまり、植物学的には、気候寒冷化という環境条件が悪くなると、「種子でしのぐほうがはるかに有利」となり、「種子の生産性の高いものが栄養繁殖するものより有利になる」から、「集団全体で考えると、種子を生産する能力の高いものの割合がどんどん高くなってゆく」というのである。こうした高い種子生産性は、「栽培しようという人間の側からも歓迎され」(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』169頁)、選別されることになるというわけである。
こうして、この前5000年頃の寒冷期に、中国では、揚子江中・下流域で稲作農耕が普及するようになった(梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』[講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、36頁)。こうして、揚子江中下流には稲作で「都市文明に匹敵する文明」が登場し、故に、「中国文明の源流は黄河ではなく、じつは揚子江中下流の稲作地帯にあった」(安田喜憲「地球のリズムと文明の周期性」[『講座 文明と環境』第1巻地球と文明の周期、朝倉書店、1995年、251ー2頁])ということになる。
一方、その華北では、前6000年頃にアワやキビ、アブラナ類の栽培を行なう初期農耕が出現し、その初期農耕遺跡は、「マツ属と落葉ナラなどの針葉樹と落葉広葉樹の混合林の生育する華北平原」、「森林ステップの生育する黄土高原の境界付近」に集中している(安田喜憲「農耕の起源と環境」前掲書123頁)。
3 長江中流域文化の稲作文化の展開
長江中流域とは、「現在中国第一の大湖である『は陽湖』の西側にある九嶺山脈(長江南岸)と大別山脈(長江北岸)より西へ四川省東部の丘陵地帯(長江三峡の出口)までの間、とりわけ広大な江漢平原を中心とする地域」で、その江漢平原は「中国最大の淡水湖であった洞庭湖を囲み、長江と漢水によって潤う」平原である(徐朝龍『長江文明の発見』85頁)。
1万年前、最後の氷河期が終り、長江の中・下流域にジャポニカ型の野生園が自生し、「この時期には、熱帯の大河流域にある大平原にも、インディカ型野生稲(ニバラ種)が生えていた」。そして、7000−8000年前、「長江流域の人びとが、ジャポニカ型野生稲を栽培化するようにな」(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』日本放送出版協会、1996年、189−190頁)るのである。
1950年代から現在まで、北緯37度以南の長江中下流域、珠江流域、雲南省、黄河・淮河流域で120箇所以上の「新石器時代に属する稲作遺跡」が発掘された(黄強「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」[諏訪春雄・川村湊篇『アジア稲作文化と日本』雄山閣、平成8年]35頁)。その稲作遺跡の80%は「揚子江の中流・下流域」(厳文明氏[樋口隆康「アジアにおける稲作の起源と長江文明」<諏訪春雄・川村湊篇『アジア稲作文化と日本』雄山閣、平成8年、14頁>])で発掘されている。
これは、長江下流域とともに、中流域(湖北省、湖南省、江西省)が、稲作には最適地で、「栽培稲の起源地」(徐朝龍『長江文明の発見』85頁)であり、「稲作農耕開始の核心地域である可能性があ」(宮本一夫『中国の歴史』158頁)ることを示している。ここは、「黄河流域より長江流域の方が経済的に、文化的に、そして社会的にはるかに進んでいた」(徐朝龍「黄河以前の高度な都市文明」前掲書62頁)のである。
そして、以後、長江流域農業は着実に展開して、現在、この長江流域内の耕地面積は「中国全体の四分の一」、「その食糧の生産量はなんと国全体の40%以上を占め」(徐朝龍『長江文明の発見』角川選書、平成10年、28頁)るに至っている。現在この長江流域には、「中国人口の三分の一にあたる四億二千万の人間が営々と生活している」(徐朝龍『長江文明の発見』28頁)のである。
こうした長江流域の「豊かさ」は古来からのものであり(徐朝龍『長江文明の発見』28頁)、そこで、以下、古代において長江流域で稲作がどのように推進されたかを考察してみよう。
@ 玉蟾岩遺跡(ー前14000年)・仙人洞・吊桶環(ー前12000年)
玉蟾岩遺跡 湖南省南部の道県にある玉蟾岩(ぎょくせんがん)という洞窟遺跡では、丸底土器、獣骨、貝殻、「数十種類の植物の種」と「栽培された稲」が発掘された(徐朝龍『長江文明の発見』39頁)。
ここでは「旧石器時代末期から新石器時代初頭へと移行するという段階で採集漁撈経済と相俟って、人々は稲の栽培という新しい食物の開発を試み始めた」(徐朝龍『長江文明の発見』39頁)のである。
仙人洞・吊桶環遺跡 一方、長江下流域と中流域の境に位置する江西省万年県に仙人洞遺跡と吊桶(ちょうとう)環という洞窟遺跡があり、そこは、「それぞれ気候温暖な湖相盆地の縁部に立地し、豊富な水資源と植物資源に恵まれてい」て、「採集経済から稲作へ移行するという決定的な経済的、社会的、歴史的変化の痕跡」(徐朝龍『長江文明の発見』36ー7頁)が確認された。
この両遺跡では、「層位単位にイネのプラントオパール分析(イネの機動細胞の植物珪酸体で、植物種類で形態差を区別)が行われ」、これによって、「野生イネから栽培イネへの変化過程」が考察され、G層(BP[測定年代]1万2千ー1万1千年)には野生イネが存在している事、F層(BP1万1千ー1万年)ではイネのプラントオパールが発見されない事、E層(BP1万ー9千年)では土器が出現し野生イネ・栽培イネが存在する事、D層(BP8千年)では栽培イネが野生イネより増加すること、C層(BP7千年)では栽培イネがさらに増加することが解明された(宮本一夫『中国の歴史』講談社、2005年、 88−9頁)。
つまり、仙人洞遺跡では、「下の第一時期の層からは打製石器などの道具や大型動物の骨などが数多く検出され、旧石器時代の文化的様相を呈していた」が、第二期の層では磨製石器、丸底土器、栽培稲のプラントオパールが発掘された(徐朝龍『長江文明の発見』37頁)。吊桶環遺跡(仙人洞遺跡から僅か800m)では、「E層を境に、下層のF〜P層には土器や局部磨製石器が存在しない」が、「新石器時代のE層から上のC層までの文化層からは栽培された稲のプラントオパールが次第に増加傾向を見せ、栽培活動が漸進的な展開をたどっていたことを示唆」(徐朝龍『長江文明の発見』38頁)しているのである。
こうして、C層が「初期稲作農耕社会が始まった段階」(宮本一夫『中国の歴史』89頁)といえる。だとすれば、「稲の栽培は西アジアにおける小麦と大麦の栽培の始まりとほぼ同時期、つまり、1万2千年以上前にすでに長江流域から下流域にかけての一帯で開始したこと」になる(徐朝龍『長江文明の発見』33頁)。
小括 湖南省道県玉蟾岩遺跡、江西省万年県仙人洞遺跡・吊桶環遺跡から「土器片や石器、骨角器」、「シカ科を主体とする野生動物の骨」のみならず、イネのプラント・オパールも出土し、栽培稲が確認され、1万年前に中国における古代農耕社会の成立が確認される(袁靖デジタル論文「中国古代農耕社会における家畜の問題について」『歴博』、など)。そして、これらの洞窟遺跡から出土した「完新世早期のイネ遺存体や植物珪酸体」は、「ヤンガー・ドリアス期前後におけるイネ栽培化初期のプロセスを反映」しているのである(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、山川出版社、2003年、27頁])。これらの洞窟遺跡は、確かに野生稲栽培はまだ「採集と漁撈を主とした経済形態の中でわずかな比重しか占めなかった」が(徐朝龍『長江文明の発見』46頁)、明らかに稲栽培がなされていたのである。
以後、「洞窟を離れて平地の微高地」では、玉蟾岩遺跡、仙人洞遺跡、吊桶環遺跡から進展して「一万年をはさむ時期に成立」した湖南省れい県彭頭山遺跡や八十だん遺跡では、「生産拡大と人口増加につれ次第に集落を形成」(徐朝龍『長江文明の発見』44頁)していった。
この結果、「長江中流域においては、広域の社会共同体の存在を裏づける彭頭山文化や城背渓文化などが成立」し、「現在までにすでに十数か所の関連遺跡が長江をはさんで湖南省と湖北省内に発見」(徐朝龍『長江文明の発見』44頁)された。そこで、次には、この彭頭山文化や城背渓文化を瞥見してみよう。
A 彭頭山文化(前7000年ー6000年)
原初的農業社会 彭頭山(ほうとう)遺跡では「土器及び焼土の中に多くの炭化した籾殻」が発掘され、「彭頭山文化に属する李家岡遺跡」では「土器の残片から土器を作るときに混ぜられた大量の炭化籾殻」が発見された(黄強「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」前掲書38ー9頁)。
さらに、彭頭山文化に属する「湖南省のれい水流域(洞庭湖の西辺)の文化」、湖北省の「p(そう)市下層文化」などは、「縄蓆(じょうせき)叩きからなる釜、壺、鉢を基本的な土器組成とする文化」であった。また、彭頭山文化の最古の環濠集落である八十とう(土偏に當)遺跡では「多量の稲籾」が出土した。小型なので、野生稲という見方もあるが、「多量のイネが採集され備蓄されていた」(宮本一夫『中国の歴史』158頁)ことを重視する見解もある。
こうして、紀元前7000年前には、彭頭山文化では「すでに稲作農業においた立派なもの」になって、「は陽平原」では彭頭山文化に属する遺跡が十数か所ほど発見され、「少なくとも9千ー8千年頃前(前7000年ー6000年)には稲作農業に基盤をおいた原初的農業社会が長江中流域に姿を現した」(徐朝龍『長江文明の発見』86頁)のであった。この原初的農業社会については、徐光輝・林留根氏も、洞庭湖平原では、「遅くとも彰頭山文化のある段階からすでに環壕集落が登場し,水田稲作に関わる炭化米の実物資料も発見され,水田稲作を営む農耕集落の存在が確認」されていると指摘している(徐光輝・林留根「長江流域の農耕集落について」[『国際社会文化研究所紀要』第6号、2004年])。
担い手 この稲作文化の担い手は誰であったか。これに関して、諏訪氏は、「彭頭山遺跡のある湖南省の洞庭湖周辺は、紀元前二世紀ごろに黄河中流域から漢民族に追われてうつってきた苗族の居住地」であるから、苗族が「8千年前の彭頭山文化の担い手であった可能性」はないとする。ただし、蘇哲氏は、「九千年から七千五百年前のころに長江中流域に住んでいたのは苗蛮部族とよばれた現在の苗族の祖先であった」(諏訪春雄「稲を運んだ人びと」[諏訪春雄・川村湊篇『アジア稲作文化と日本』雄山閣、平成8年、76頁)とする。
しかし、諏訪氏は、『後漢書南蛮伝』を根拠に、長江中流域に住んで彭頭山文化を作ったのは越人であり、この蛮越が下流に下って稲作を伝えたと主張している(諏訪春雄「稲を運んだ人びと」[諏訪春雄・川村湊篇『アジア稲作文化と日本』雄山閣、平成8年、77頁)。
影響 稲作農業起源を象徴する彭頭山遺跡や、「城砦都市を特徴とする中国古代都市」の城頭山遺跡のように、「洞庭湖畔を中心とした地域は、長江中流域における古代文明史上極めて重要な地位を占め」(徐朝龍『長江文明の発見』155ー6頁)た。
この後、「彭頭山文化を受け継ぎながら分化したp市下層文化(のちに湯家崗文化へと発展する)と城背渓文化という一歩進んだ8千年前の稲作文化が確認され、二元的な展開を見せて」(徐朝龍『長江文明の発見』86頁)ゆくのである。
そして、「彭頭山の稲作が賈湖遺跡に伝播したのか、両者は無関係にそれぞれが別々に稲作農耕を発明したか」(諏訪春雄「稲を運んだ人びと」[諏訪春雄・川村湊篇『アジア稲作文化と日本』雄山閣、平成8年]72頁)という問題に対して、諏訪氏は、「最古の稲作」は長江中流の彭頭山遺跡(賈湖遺跡より800年遡る)で始まったと主張し(諏訪春雄「稲を運んだ人びと」[諏訪春雄・川村湊篇『アジア稲作文化と日本』雄山閣、平成8年]75頁)、前者見解を支持している。
さらに、この時期には、「稲作は早くも驚異的な拡大ぶりを見せ、北緯33度まで北上し、寒冷な畑作農業文化圏に食い込み、河南省舞陽県賈湖遺跡(裴李崗文化)や陝西省華県李家村遺跡に現われ、粟、黍、稗とともに栽培されていた」(徐朝龍『長江文明の発見』86ー7頁)のであった。
こうして、長江中流域では、「従来の集落共同体ごとにそれぞれ血縁的なつながりや文化的な地域色がまだ多少残っていたものの、稲作農業は・・広域的な文化現象としてすでに完全に定着していた」(徐朝龍『長江文明の発見』87頁)のであった。
B 城背渓文化(前7000−6000年)
城背渓文化は、洞庭湖周辺で彭頭山文化の影響をうけて展開したと推定される。
1983年、7千年前の城背渓遺跡から「炭化籾殻を多く含んだ土器片」が出土した(黄強「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」[諏訪春雄・川村湊編『アジア稲作文化と日本』雄山閣、平成8年、38頁])。
C 湯家崗文化(前4800年ー4300年)ー城頭山遺跡
洞庭湖の西側周辺に、湯家崗(とうかこう)文化の代表的遺跡の一つ城頭山遺跡がある。
城頭山遺跡は、面積18.7ha(中国常徳市のHP)で、「直径360mのほぼ正円の城塞都市」である。そして、「東西南北に城門があり、周りを環濠に囲まれ」、「稲作の豊穣を祈る農耕儀礼の祭壇」と推定される土壇が発見されている(安田喜憲『長江文明の謎』青春出版社、2003年、14頁)。城頭山遺跡の東門周辺の下に、城壁が築造される以前の湯家崗文化時代の水田(約6,500年前)も発見された。
この水田には、「灌漑用の溝」がある。故に、ここでは、「長江下流域の草鞋山遺跡の水田」とは異なり、「畦畔による階段式の水田区画が認められ」、「天水田に水路が加わり、出排水の調整」が行なわれていた(宮本一夫『中国の歴史』158頁)。
この初期農耕社会の墓地の特徴を見ると、同時期の黄河中流域・渭河流域の墓地とは異なり、墓では「女性比率が高」く、「母系社会であった可能性を示」(宮本一夫『中国の歴史』158−9頁)している。また、副葬品では、「副葬品における多寡の違いが増す傾向にあって、集団内での埋葬における扱いの差が開く傾向にあ」り、「集団内での個人が比較的平等である社会であるにもかかわらず、次第に階層関係が生まれていく過程を示」(宮本一夫『中国の歴史』160頁)していた。だが、まだ「その墓群の基礎単位を単婚家族の構成員であるとする証拠はな」く、「集団が半族(主として近親結婚回避のために組織されている二つの部分集団ー筆者)として二分される双分制的な社会」であったが、やがて稲作開始で「血縁家族を単位とした社会格差が生まれ」てくるのである(宮本一夫『中国の歴史』161−2頁)。
D 大渓文化(前4500年ー3300年)
6500年前ー5300年前(紀元前4500年ー3300年)、「美しい彩文土器を象徴する大渓文化」は「p市文化(湯家崗文化)と城背渓文化を継承した形で長江をまたがって展開」した(徐朝龍『長江文明の発見』87頁)。四川省巫山県(長江上流)、湖北省・湖南省(長江中流)の大渓遺跡の文化は、湯家崗文化と城背渓文化が融合して、中流文化が上流に波及したものとも言える(宮本一夫『中国の歴史』161−2頁)。
当初は「漁撈などに部分的に依存するために河川付近に固執」していたが、「稲作の安全発展に伴って農業に適する平原部に移って展開し、人口規模も急速に拡大」し、指導者、祭祀者、軍人、商人、職人などが集住する都市」となり、大渓文化期に、「長江中流域における稲作農業社会」は「最初の繁栄期」を迎えたのである(徐朝龍『長江文明の発見』87頁)。この時期に灌漑農法が確立して水田が発展し、水田が水畔から平野部にまで拡張したである(宮本一夫『中国の歴史』161−2頁)
大渓文化の土器には、「稲の籾殻が胎土の混合材として使用されるとともに、住居跡から出土した焼土塊の中にも稲の籾殻や茎、葉などが含まれてい」て、ここからも「大渓文化において稲が栽培されていたこと」(王小慶『仰韶文化の研究』雄山閣、2003年、26頁)が確認される。
大渓文化の土器は、「紅色のものを主体として、釜・鼎・高台付き盤・壺・杯・瓶などが代表的な器種」であり、「各種の印文と彩文は大渓文化の最も特徴的な文様である」(王小慶『仰韶文化の研究』26ー7頁)。
E 屈家嶺文化(前3000年ー前2600年頃)
前3300年、屈家嶺(くっかれい)文化が大渓文化にとってかわり、「稲作そのものはもはや未曾有の全盛期に入った」った。紀元前3千年紀前半には、屈家嶺文化は「北は河南省、陝西省の南部にまでその勢力圏を伸ばし」た(徐朝龍『長江文明の発見』88頁)。
大渓文化を屈家嶺文化に転換させた起爆剤は、「伝統的な農業社会に起きた質的変化」(個性的な彩文土器から「定型化と量産化」をめざす黒陶土器の転換など、「生産向上、人口増加、社会激変、利害衝突多発という時代の趨勢の中、『個』が押さえられて縮まり、『群』が膨らむ」)であった。特に、「稲作農業の繁盛によってもたらされた余剰労働力の出現を前提」にして、農業から手工業が分離したことが注目される(徐朝龍『長江文明の発見』88−9頁)。城外では「著しい土製紡錘車」、石器製造工場、玉器産業があり、「すでに分業化した特殊な手工業が確立し、専門的大工人集団が存在」(同上書93頁)
こうして、「稲作農業の持続的な発展によって一連の連鎖的結果が産み出され、生産安定による人口の増加、農地拡大から発生した利益空間の確保、分業化で物流が促した交易の繁盛、血縁関係の弛緩による地域社会の変容、緊張と摩擦から生まれた地域紛争調停の必要性、広域にわたる政治的統括の確立への要請」から、「数千年も続いていた伝統的な農耕社会の殻を破り」「新たな社会構造の出現」を要求したのである。ここに、大渓文化の環濠集落が屈家嶺文化の城砦都市に取って代わられた(徐朝龍『長江文明の発見』89−90頁)。
こうした屈家嶺文化の都市を代表するのが湖北省天門市石家河遺跡(東西1100m、南北1400m。高さ6mの壁[基底部の幅50m、上部が幅5−6m])であり、紀元前3千年から紀元前2千年頃まで存続した(徐朝龍『長江文明の発見』90頁)。
この石家河を中心『都市』として、周囲に地域『都市』および大小集落という「ゆるやかな統一社会共同体」が形成された(徐朝龍『長江文明の発見』93−4頁)。それは、「全体で数千人が住む、都市的な大集落」(岡村秀典「古代文明への視点」[鶴間和幸編『四大文明 中国』]135ー6頁)だったようだ。
城内から、「数千点にのぼる動物や人間をかたどったミニチュア粘土塑像」が発掘され、「埋葬儀式か祭祀活動に関連」すると推定されている。また、城内での「数万点を数える夥しい小型コップ」の堆積は、「宗教的儀式用か、交易用のために大量に生産された製品のストック」と見られる(徐朝龍『長江文明の発見』91−2頁)。また墓葬分析においても、「大渓文化末期から屈家嶺文化にかけて、いわば等質的な社会」ではない社会が登場したことが確認される(宮本一夫『中国の歴史』165頁)。 この屈家嶺文化の「社会に君臨する支配者」は、こうした宗教的権威に補完されてこの城壁内で「権力を振るっていた」(徐朝龍『長江文明の発見』91−2頁)とみてよい。
なお、「屈家嶺文化で最小の城郭集落である城頭山遺跡」では、人口数百人と周辺からの労働力が「直径300mあまりの城壁」を造っていたというから(岡村秀典「古代文明への視点」[鶴間和幸編『四大文明 中国』137頁])、城頭山遺跡はこの時期にも持続していた。
F 石家河文化(前2600年ー1800年)
屈家嶺文化との関係 石家河(せっかが)文化は長江中流域最大級の都城遺跡であり、遺跡の上層部は屈家嶺文化に属しているが、前2600年以降は独自な文化を展開したとされている。
巨大集団 この石家河文化という「巨大な人間集団は、紀元前3千年紀前半から末期にかけて、「長江下流域の良渚文化と黄河流域の龍山文化という二つの広域社会共同体」とともに、当時の中国文化を代表していた(徐朝龍『長江文明の発見』99頁)。
石家河遺跡群は「約30ヶ所の遺跡からなる複合的遺跡」であり、「地域文化の最盛期」であった。中西部に当たる郡家湾遺跡(「土坑墓60基,斐棺墓12基,複数の灰坑(五)と横に長く繋いだ筒型土器や陶虹を検出し」、「灰坑から千点以上の土偶(人,象,犬,羊,鶏)が出土)、中南部の三房湾東台(「数万点ないし十数万点にのぼると言われる紅陶杯を発見し」、「集団規模の祭紀」に使用)、城外の南部に位置する肖家屋脊遺跡(「平面長方形の地上式住居跡,窯跡,灰坑,土坑墓,斐棺墓と共に大量の土器,石器などが出土」)などがあり、「石家河遺跡群の諸遺跡はそれぞれ異なる機能を果たし」、「石家河遺跡群を巨大な拠点集落ないし初期段階の城郭都市」よされている(徐光輝・林留根「長江流域の農耕集落について」[『国際社会文化研究所紀要』第6号、2004年])。
この時期に、「墓葬で明確に階層上位者である墓と認定」できるようになる(宮本一夫『中国の歴史』162頁)。こうした石家河の巨大集落に対して、「大型でかつ祭祀センターとしての性格」を持ち、「萌芽的都市」が示唆されるという評価もある(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、46−7頁)。
三苗 この石家河文化の住人は「黄河中流域(中原地方)に住む華夏民族から軽蔑をこめて」三苗(さんびょう。三とは数が多いこと、苗とは「中流域の南方民族の総称」)と呼ばれた。夏王朝が成立する前から、「華夏民族の『三代聖王』とされる尭、舜、禹に代表される黄河流域の勢力が『三苗』民族を相手に死闘を繰り返し、血みどらな大戦争をしかけて征服をはかろうとした」(徐朝龍『長江文明の発見』100頁)
衰退 屈家嶺文化の分布範囲は長江中流域を遥かに越えて河南省の南部を含む周辺地域に大きな影響を及ぼしたが,後の龍山時代になると逆に中原龍山文化の強い影響を受けるようになり,石家河文化の後期から伝統文化が急速に衰退していくが,その原因については未だよく分かっていない(徐光輝・林留根「長江流域の農耕集落について」『国際社会文化研究所紀要』第6号、2004年)。
石家河文化期以後の大型集落の状況については,段商中期即ち二里岡上層文化期に相当する盤龍城遺跡と、石家河遺跡群の東北部に位置する西周時期の土城遺跡とが知られている(徐光輝・林留根「長江流域の農耕集落について」『国際社会文化研究所紀要』第6号、2004年)。
4 長江下流の稲作文化
長江下流域では、気候が温暖、水資源が豊富、そして、土地も肥沃であり、稲作には最適な地域の一つであった。稲作は、長江を中流域からこの下流域へと伝播すると、長江下流域(安徽省、江蘇省、浙江省、上海市)では河姆渡文化、草靴山文化、良渚文化が展開した。現在、長江下流域のデルタ地帯は、「上海、寧波、杭州、蘇州、無錫など中国の中で最も豊かな現代都市を擁し、人口密度も非常に高」(徐朝龍『長江文明の発見』59頁)く、「長江の中流から下流にかけての至るところで数千年の稲作遺跡」が発掘されている(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』日本放送出版協会、1996年35頁)。
稲作の波及の第1波は、前4300−前3700年の馬家浜文化時期で、長江デルタ海岸地帯に達した。
第2波は前3800−前2900年の時期で、「長江に沿って西方に発展し両湖盆地に達した」(和佐野喜久生「稲作の江南起源説」」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、163頁])。
第1波と第2波は耜耕(しこう)期(紀元前5000年頃ー3000年頃)とも言われ、「稲作の急速な地域拡大に伴ない、栽培技術の向上や道具の発明と改良が進み、稲作農業に顕著な発展をもたらしてき」て、長江中流域の大渓文化・屈家嶺文化、長江中・下流域間の薛家岡(へいかこう)文化・樊城堆(はんじょうたい)文化、長江下流域の河姆渡文化・馬家浜(なかひん)文化・ッ沢文化、華南地方の石峡文化などが展開し、「中流域より下流域の方が道具の発明と改良(特に「水田を水平にして耕起するのに用い」る骨耜)に長足の進歩の観を呈していた」(徐朝龍『長江文明の発見』47ー8頁)。この時期に「稲が人々の主食として定着」(徐朝龍『長江文明の発見』48頁)した。
第3波は、前2900−前2100年の長江下流域および杭州湾地方の良渚文化、両湖盆地の屈家嶺文化(前2900−前2600年)、北江流域の石峡文化、黄淮平原・江漢平原・長南以南に分布する龍山時代に属する良渚文化の範囲になる(和佐野喜久生「稲作の江南起源説」」前掲書163頁])。「犂耕期」(紀元前3千年ー2千年頃)にあたり、「稲作の分布範囲は長江流域を挟む南北方向にいっそう拡張」した。この時期の最先端文化は長江下流域の良渚文化であり、ここでは「湖沼と小川が多」く「一種の三角形石犂(泥水田の翻耕に有効)がよく発見され、犂耕の確立を裏づけている」(徐朝龍『長江文明の発見』48頁)。この時期では、こうした農業生産力の増加に応じて、長江流域では、「巨大な城壁や基壇の建造」が見られる(徐朝龍『長江文明の発見』49頁)
第4波は、後述する歴史時代の夏・殷・周時代で、長江上流域および黄河中・下流以北が舞台になる(和佐野喜久生「稲作の江南起源説」」前掲書164頁])。
以下では、第2波、第3波の河姆渡文化、草靴山文化、良渚文化などについて、考察してみよう。
@ 河姆渡文化(紀元前5000−4000年)
歴史的発掘 長江流域が稲作起源地であることが解明されるきっかけとなったのが、この河姆渡遺跡の発掘であった。
1973−4年、1977−8年にわたり浙江省余姚市の河姆渡村の発掘作業が行われ、稲作遺跡が発見された。その後も、文化大革命による圧迫を受けつつも、この河姆渡遺跡研究が細々とつづけられ、長江下流浙江省の河姆渡遺跡第四層からで「数十センチの厚さに堆積した籾」が発掘された(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』日本放送出版協会、1996年、12頁)。炭素14法による年代測定の結果、河姆渡遺跡は、中国最古のみならず、前5000年という「世界最古の稲作遺跡」であることが判明した。1986年に王在徳氏は「中国の最古の稲作遺跡は、長江上流の雲南省一帯ではなく、長江下流域にある」(梅原猛「総論 農耕と文明」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』(講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、14頁])と主張した。
しかし、当初はまだまだ「アッサムー雲南起源説」が優勢であって「河姆渡遺跡の本当の価値は顧みられなかった」(梅原猛「総論 農耕と文明」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』(講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、13頁])のである。
栽培稲 さらに、分厚い層の栽培稲についてみてみよう。
前5000年の河姆渡遺跡出土の炭化米のなかに、数%の野生稲(籾に「よく発達した『のげ』[「籾の先端に一本天に向って峻立する針のような器官」で「のげの表面には鬼の金棒を思わせるたくさんのとげが密生」]」がある)と「多くの栽培稲」(栽培稲は野生稲と違って脱粒性が喪失しているので、「籾の付け根の部分には、補軸からひきちぎられた痕跡」がある)が発見された(佐藤洋一郎「そこに稲作の故郷を見た」[稲盛和夫・梅原猛編『良渚遺跡への旅』PHP研究所、1995年]80頁)。
発掘された籾の大部分が「栽培稲」であったことは、「イネの栽培化が集約していく過程」を示している、だが、「この段階にはまだ水田は存在しておらず、自然地形とモンスーンを利用した、天水田ともいうべき谷部を利用してのイネ栽培であった」(宮本一夫『中国の歴史』144−5頁)のである。前5000年から前3000年の稲作の展開において、「揚子江の下流において多量の森が破壊され、そこに巣食う動物が加速度的に減少」(梅原猛「総論 農耕と文明」前掲書16頁)し、その分だけ稲作への依存を深めていったのである。
農具 河姆渡遺跡では、こうした農耕の展開とともに、「黒陶の彩色土器」(ロクロで薄手で精巧に作られた黒色土器で、煮炊き用に使用)、「骨角器」(鋤)など稲作関連道具が使用されるようになった(梅原猛「総論 農耕と文明」前掲書12頁など)。つまり、 「動物の肩甲骨を使った骨耜(鋤)や骨鎌」、木鍬などの農具も発掘されたのである(黄強「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」[諏訪春雄・川村湊篇『アジア稲作文化と日本』雄山閣、平成8年、38頁])。
厳文明氏は、「河姆渡第4層は、出土した稲穀が多く、専用の稲作農具もあることから、当時の稲作農業は萌芽期の時代を脱出してい」(、渡辺武訳『中国稲作農業の起源』(農業考古1・2、1982年[和佐野喜久生「稲作の江南起源説」」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年]163頁])ると指摘している。
多数の稲作遺跡の発掘 その後、長江中流域南部の湖南省遵県城頭山,同彰頭山,同八十泊などの集落遺跡から5000−8000年頃前の炭化米や水田跡が検出され」てくると、ここに「アッサムー雲南起源説」は否定され、「長江中下流域起源説が最も有力になって」(徐光輝・林留根「長江流域の農耕集落について」[『国際社会文化研究所紀要』第6号、2004年])きた。
つまり、栽培稲の原種は野生稲(オリザ・ペレニス)が発掘されたのである。これ自体は、「熱帯アジアの各地に生えるイネ科の草本」であり、アジアのみならず、オセアニア、中南米、アフリカにも存在している。アジアのペレニスは「オリザ・ルフィボゴン」と呼ばれ、「多年生の性質が強いもの」と「一年生の性質が強いもの」(これをオリザ・二バラと呼ぶものがいる)がある(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』日本放送出版協会、1996年、43−47頁)。河姆渡遺跡遺跡から多年生の野生稲が発掘されたのである。
河姆渡遺跡の出土米に「芒(のげ)の鋸歯」が確認され、これが「多年生の野生稲」の証拠になった。「7000年前の野生稲の発見は、長江の下流域が栽培稲と稲作の起源地の一つであるとの仮説を支持する有力な証拠となった」のである。だが、7000年の間に長江下流域では野生稲はなくなってしまった。各文献によると、「1000年ほど前までは長江流域に野生の稲が生えていた可能性が高い」が、気候変動(温度低下)・開発(人間による環境撹乱)によって、350年前に野生稲がなくなったのである(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』日本放送出版協会、1996年、56−61頁)。この発見によって、中尾佐助氏らのインド・アッサム稲作起源地説が「完全に否定」(徐朝龍『長江文明の発見』33頁)された。
河姆渡遺跡のイネは7600年前であるが、麦作の農耕起源は1万2800年前であるから、「稲作は麦作より5000年以上遅れて始まったことになる」(68頁)。しかし、その後、上述の通り、「彭頭山遺跡の稲作の起源は1万年前」であり、湖南省の玉蟾岩遺跡や江西省の仙人洞遺跡、吊桶環遺跡のイネの起源は、1万4000年以上前にさかのぼり、結局、「西アジアの麦作より1000年以上も古くさかのぼる」(安田喜憲『長江文明の謎』69−71頁)ことが明らかになった。要するに、東アジアの稲作は、西アジアの麦作とほぼ同時か千年早く起こったということである。
河姆渡遺跡とジャポニカ 河姆渡遺跡の出土米には、「せんと呼ばれるインディカに類する品種」と「粳(こう)とよばれるジャポニカに類する品種」がある。佐藤洋一郎氏は、「長江下流域で長粒の温帯ジャポニカが誕生し、インディカは熱帯のどこか別の地域で起源した」と主張した(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』日本放送出版協会、1996年、49頁)。
鄭雲飛ら『河姆渡遺跡稲的珪酸体分析』(淅江農業大学学報20、1990年)も、「河姆渡遺跡から発掘された稲の葉のプラント・オパール分析から、当時の主な栽培稲は熱帯ジャポニカであった」と主張した(和佐野喜久生「稲作の江南起源説」」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年]166頁)。
これに対して、和佐野氏は、「中国大陸の長粒種はせん型でインディカに属するとしながら、河姆渡遺跡の長粒種はジャポニカに属するというのであろうか」と疑問を提起し、「栽培稲と遺伝学的分類論争と考古学的稲作起源とは切り離すべきではないだろうか」と批判した(和佐野喜久生「稲作の江南起源説」」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年]166頁)。
この「ジャポニカ長江起源説」は、「まだ未完の学説」(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』日本放送出版協会、1996年174頁)と言われている。しかし、「長江中・下流域に栄えた文明は、ジャポニカの稲によって支えられた文明だった」(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』日本放送出版協会、1996年、172頁)のである。長江中・下流域で栽培化された稲は、「近年の生物学的研究からジャポニカ型野生稲であったと考えられている」(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、山川出版社、2003年、26頁)のである。
A 田螺山文化(紀元前5000年ー)
田螺山(でんらさん)文化層(河姆渡遺跡から北東に僅か7km)の第1層から第8層に分層される堆積層のうち「第3〜8層が河姆渡文化層」であり、骨角器(「骨耜」という骨製のスキ)という農具や、出土炭化籾の基部脱落痕の観察から、「湖沼や湿地に接して集落を構えた田螺山人は・・すでに稲作を始めていた」ことが明らかになる。ただし、「あいかわらず野生イネの採集「や、森林での木の実の採集(貯蔵穴の遺物から確認)していたことなども判明している(
中村慎一「中国の初期稲作遺跡を掘る ―浙江省田螺山遺跡の日中共同調査―」[金沢大学サテライト・プラザミニ講演、2008年12月13日])。遺物にはまだ「ドングリとヒシの外皮の遺物」の方が多く、「野生植物の採集もおこなわれていた」(ドリアン・Q・フラー「植物考古学からみた栽培イネの起源」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』玉川大学出版部、2013年、200頁])のである。
田螺山遺跡調査では「下方の層は6900−6600年前(紀元前4900−前4600年)までさかのぼる」が、「ここでは、層が上にいくにしたがって、ふくまれる栽培イネの小穂軸の数の割合が27%、36%、39%と順を追って増加し、野生種と移行種の割合は減少し」、「遺物によってイネの栽培化がすすむようすが明らかになったということを示」すようになる(ドリアン・Q・フラー(Dorian
Q.Fuller)「植物考古学からみた栽培イネの起源」同上書199頁])。
こうして、「田螺山遺跡で見つかった遺物から、6600年前にはイネはまだ栽培化への発達段階にあったことがわかったが、その後、地域個体群において栽培イネが野生イネの数をうわまわるという転換策が訪れ」(ドリアン・Q・フラー「植物考古学からみた栽培イネの起源」同上書203頁)るのである。
B 草鞋山文化(紀元前4200−3900年)
遺跡発掘 1992−6年、上海の西の太湖(江蘇省南部と浙江省北部の境界にある)周辺の草鞋(そうあい)山遺跡で、水田遺構が発掘された(宮本一夫『中国の歴史』144頁)。ボーリング調査でプラント・オパール分析をすると、「深さ2−2.5mに水田が埋蔵されているという結果がえられた」のである(宇田津徹朗「イネの細胞の化石(プラント・オパール)から水田稲作の歴史を探る」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』玉川大学出版部、2013年]170頁)。
そして、「耕作土や炭化米にふくまれる炭素の同位体」の測定から、草鞋山遺跡の水田の年代は、「およそ6200−5900年前(紀元前4200−3900年)の馬家浜文化期の中期となった(宇田津徹朗「イネの細胞の化石から水田稲作の歴史を探る」同上書172頁)。
初期の水田は、「『生土』と呼ばれるこの地域にひろがる黄色く固い地層を削り、水がたまるように自然地形の谷部を拡張・連結して造成したもの」(宇田津徹朗「イネの細胞の化石から水田稲作の歴史を探る」同上書174頁)で、「水の集まりやすい谷状の低地に畳一枚から数枚ていどの小さなくぼみを連ねた水田」であり、「線状に細長くつづいた小規模な水田」(岡村秀典「古代文明への視点」[鶴間和幸編『四大文明 中国』]132−3頁)であった。
しかし、「水田の特徴である畦や水口をそなえており、耕作土にふくまれるイネのプラント・オパールの密度は、栽培期間が数百年間であることを示し」、「農具(骨でつくられた鋤)も発掘され」(宇田津徹朗「イネの細胞の化石から水田稲作の歴史を探る」同上書174頁)ている。以後、自然的・気候的条件に規定されつつ、米の高播種率を高度に発揮するために、水田規模の拡大、それに応じた灌漑用水路の整備などがなされてゆくことになる。
草鞋山稲作の限界 草鞋山遺跡はこの地域最古の水田であり、土坑から「多量のイネの植物珪酸体」・「多量の炭化米」が出土されたのである(宮本一夫『中国の歴史』145頁)。草鞋山遺跡では、「野生の木の実は非常にすくなくな」り、「6000年前までに、食生活が、かなりの量の植物採集の形態からコメを中心とする農耕の形態へ変化し」、「小さな水田」が発掘されている(ドリアン・Q・フラー「植物考古学からみた栽培イネの起源」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』玉川大学出版部、2013年、200頁])。
確かに、この水田は、上述のような「自然地形利用型の水田」であり、「イネを連作するための基本的な機能」をもっていた。故に、「近年では中国の長江下流起源説が有力になってきており、最近では江蘇省草鞍山遺跡で、約6000年前の稲作遺構が発揮されている」(『滋賀県の歴史』山川出版社、2010年第二版、21頁)という指摘もなされている。しかし、「自然地形利用型の水田は、連作ができるが生産性が低く、社会形成をもたらす重要な要素である『余剰生産性』をそなえていない」故に、このあとに出現する「自然地形を改変して水平な生産空間を人工的につくりだした水田」、つまり「基盤整備型の水田」の登場の検証が重要になり、後述の如き「長江下流域の良渚文化期と呼ばれる時代」が注目される(宇田津徹朗「イネの細胞の化石(プラント・オパール)から水田稲作の歴史を探る」同上書174−5頁])。ただし、この草鞋山遺跡では、「不整形の窪みを連ねたような粗放な水田から、井戸・水溜・水路などの簡単な灌漑施設を伴う水田への段階的な移行が認められる」(丁金龍ら「江蘇草鞋山馬家浜文化水田的発展」厳文明・安田喜憲主編『稲作陶器和都市的起源』文物出版社、2000年[40頁])という指摘もあることが留意される。
また、これでも、「この段階の稲作農耕は、採集活動の延長としての女性労働が主な対象であ」り、「必ずしも稲作が生業における主体部分に達して」おらず、まだ「狩猟採集を含めた多角的な生業戦略の一つでしかなかった]と推定されている(宮本一夫『中国の歴史』146頁)。
草鞋山「稲作」では、農業生産力は弱く、余剰生産性も脆く、「5800年前までに変化のスピードが落ち、そこで3000年近く続いた栽培化が完了した」(ドリアン・Q・フラー「植物考古学からみた栽培イネの起源」前掲書204頁])のであった。
C ッ沢文化(紀元前39000−3200年)
紀元前4000年前後、「太湖地域において安定した生活環境と成長した稲作経済は、それまで漸進的に起こりつつあった社会変化を次第に加速させ、同地域の広域農耕社会をッ沢文化という新たな発展段階へとリードして」(徐朝龍『長江文明の発見』59頁)ゆくことになった。
種籾と農具 ッ沢文化期には、江蘇省高郵県きゅう荘では、「飛躍的に稲籾が大型化し、現在の栽培品種に近い大きさに変化」している事が「層位的な資料」で解明された。こうした「稲籾の大きさの変化」は「集約的稲作の出現と軌を一にした人工現象」(宮本一夫『中国の歴史』148−9頁)であり、農業技術の向上が確認される。
農具については、従来の「骨角製・木製の「さん」(スコップ状の農具)に加えて、「耕起具として石犂(せきり)」が登場した(宮本一夫『中国の歴史』)。こうした「集約的な稲作農耕の進展」は、「イネそのものの形態的な変化」と呼応している(宮本一夫『中国の歴史』147−8頁)。
稲作生産の展開 ッ沢第三期墓地では、「墓群ごとの性別の偏りは見られ」ないようになり、「婚姻家族を基礎単位とした血縁集団すなわち氏族単位で、稲作農耕の経営単位として農作業にあたる」(宮本一夫『中国の歴史』148頁)ようになった。社会の基礎単位がジェンダー(性別)から、血縁家族集団に移ったのである(宮本一夫『中国の歴史』146頁)。ここでは、農業秘術の向上、農業生産力のの増加が確認される。
つまり、紀元前3500年頃、「稲作経済が一段と成熟し、農業と手工業との分業化を速め、富の蓄積も社会の貧富格差をますます大きくして」ゆき、「ッ沢文化を担ういくつかの中心的な共同体は、ついに小地域を越えて社会統合に向けて動きだし、たがいに闘争、融合を繰り返して新社会の再編に励んで」ゆき、前3200年頃に、「その結果、考古学上で『良渚文化』と呼ばれる、次元のより高い社会段階に進み、やがて中国のどこよりも先に初期都市文明の時代へと突入」(徐朝龍『長江文明の発見』59頁)させることになったのである。 なお、ッ澤文化期の耕地拡大と人口増加に関しては、冷涼化し、海水準が低下し、「太湖周辺の湖沼面積は減少し」、平原が拡大し、これが良渚文化につながったという見解もある(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、49頁)。
次には、この良渚文化を見てみよう。
D 良渚文化(前3300−2200年)
紀元前3000年頃、北緯25度から35度では、ナイル流域ではエジプト初期王朝がスタートし、メソポタミアではシュメール文明が登場し、インダス流域ではインダス文明が始動し、世界各地で文明が誕生する中、中国では良渚文化が誕生したのである(徐朝龍『長江文明の発見』74頁も参照)。
集約的水稲農耕 5万平方キロの広域(「太湖を囲んで、南は銭塘江を越え、北は江蘇省北端の阜寧県までおよび、西は無錫を含む」)に400近くの「良渚文化の遺跡」(江蘇省呉県草鞍山遺跡、上海市馬橋遺跡など)があり、特に淅江省嘉興地区では180カ所も集中して、良渚文化は、「太湖の南東部の杭嘉湖地区にその重心を次第に移動」(徐朝龍『長江文明の発見』60頁)した。
良渚文化期((新石器時代中期末から後期)に、種籾の増大化、家畜動物割合の増加、収穫道具としての石鎌の増加、「千ぶ」(「田に水を入れて泥をこねる道具」)の登場などは、「本格的な灌漑水田」が出現し、「集約的稲作農耕がより進展」したことを示している(宮本一夫『中国の歴史』150−2頁)。石鎌以外にも三角形石犂、、斜柄石刀、石包丁など多様な磨製石器農具で、「稲をはじめ、豆類、ゴマ、ピーナッツなど栽培される質の高い複合農業を営む」(徐朝龍『長江文明の発見』61頁)に至ったのである。
こうした「集約的水稲農耕の出現」による「生産性の向上」は、「急速な人口増加を引き起こし」、「良渚文化段階の遺跡数」には「相当の増加率」が認められることになったのである(宮本一夫『中国の歴史』149頁)。これに伴い、「稲作農耕の経営単位(血縁集団)ごとに生産量の格差」を生み出し、墳丘墓が出現した。しかし、良渚文化には、まだ「王権形成には至らず、首長制社会」にとどまっていた(宮本一夫『中国の歴史』150−2頁)。
手工業 こうした稲作農業発達は「優れた手工業」をもたらし、「優れた絹製品」、鮮やかな漆器、竹編物、高水準の「非実用的」な玉器(玉j[「祭祀にかかわるシャーマンや呪術師などが所有、「社会に対する政治支配を強化」。「身分の象徴」で「祭政一致」社会を具現。支配階級の副葬品]・玉鉞[儀器・宝物、有力者の副葬品]・玉壁[円盤状、「財産の象徴」]など30種類)なども生み出した(徐朝龍『長江文明の発見』62−5頁)。
紀元前3300−2200年の良渚文化繁栄期には、「黒色土器と灰色土器がロクロ成形により大量生産され、標準化した器種構成が文化共同体の高度な統一性を示し、広域社会に集団連帯意識を呼び起こすための標識」となった(徐朝龍『長江文明の発見』61頁)。良渚文化では、日常生活でも、「稲作、絹、漆器、複雑な食器、高度な建築技術などから、・・・経済的な豊かさが窺われる」(徐朝龍「黄河以前の高度な都市文明」前掲書64頁)のである。
宗教施設 良渚遺跡群のほぼ真ん中にある莫角山遺跡は「人工で盛り上げた高い土台の上に立地」しているので、「土台の高さだけでも十分防御(外敵と洪水)の役割を果たすことができるから」、ここには「環壕や城壁がな」かったという。そして、「土台の上にある高さ4−5メートルの高台(大観山)の上には「大型建物の柱穴や干し煉瓦も見つかっ」(徐光輝・林留根「長江流域の農耕集落について」[『国際社会文化研究所紀要』第6号、2004年])ている。なお、「良渚遺跡群」では、「環濠・柵・壁で囲まれていた」という見解もある(徐朝龍『長江文明の発見』69ー70頁)。いずれにしても、莫角山の高台には大型建造物があり、これが宗教施設ともいうべきものだったのである。
良渚文明の宗教は「稲作に基づいた原始の自然信仰と部族神話を原点に成立」(徐朝龍『長江文明の発見』67頁)していたようだ。こうした宗教の施設として、莫角山高台の周りには、祭壇祉、貴族墓地、神人一体像ともいうべき玉製札器があり、「稲作農耕文化を基盤とする良渚社会では、すでにある程度の神権政治が行われていた」徐朝龍『長江文明の発見』67頁)のである。「大観山という人工の丘」(東西630m、南北450m)で、「神を祀り、その神を祀ることによって政治を行なった」(梅原猛「総論 農耕と文明」前掲書13頁)のであった。
権力装置 稲作展開で血縁関係が解体し、「部族間の利害衝突や吸収合併などをめぐって戦争が頻発し」、「戦争を指揮する軍事首領らや強奪搾取で財をなした豪族たち」が支配権を要求するようになった(徐朝龍『長江文明の発見』68頁)。「良渚遺跡群」では、「『首都圏』内に住む複数の有力部族集団がそれぞれのテリトリーをもちながら周囲の山上に共同の神と先祖を祭るための祭壇をもうけて」いた(徐朝龍『長江文明の発見』70頁)。各権力者が、各地に晩居して神権統治を展開していたのである。
やがてその中から稲作によって「権力を一身に集めた階層」が出現すると(徐朝龍『長江文明の発見』65頁)、最強権力者は、莫角山の高台に「100万人もの労働力」を投入して、「超巨大基壇」(東西670m、南北450m、現存高さ5−8m、総面積30万u)たる宮殿、さらにその上に「三つの長方形基壇」を構築し、ここで「祭祀活動や国政儀式」を行なうようになったのである(徐朝龍『長江文明の発見』69ー70頁)。彼ら最高権力者は莫角山に居住するようになると、莫角山は「都城」的存在」(徐光輝・林留根「長江流域の農耕集落について」[『国際社会文化研究所紀要』第6号、2004年])となっていた。
こうして、農業の富を基礎に、「全社会にわたる政治と宗教のシステムが整備され、社会の仕組みが急速に変化」し、「大規模な『都市センター』が出現」し、「富、権力と宗教の意味を兼ね備える玉器が異常な発達を遂げ」徐朝龍『長江文明の発見』(64頁)たのであった。こうした玉器を副葬品とする墓地は、良渚遺跡のみならず、上海市青浦県福泉山、江蘇省昆山県趙陵山、武進市寺?などからも発掘され、最上層の墓には上質の軟玉(真玉)のみが副葬され、下層身分には「真玉の割合が減ってい」った。これは、「玉器の製作を掌握した王が、地方の酋長に対して従属の見返りに格の低い少数の玉器を下賜する政治的関係が成立していた」ことを示している(岡村秀典「古代文明への視点」[鶴間和幸編『四大文明 中国』139頁])。
良渚文明は、この様に「成熟度の高い宗教信仰と蓄積された富の配分をめぐる社会構造の変容がこうした壮大な建造物を産み出し」、平等な人類社会は「多くの落伍者が生まれることを代償として物質的進歩と文化的繁栄を可能にした」階級社会に突入したのである(徐朝龍『長江文明の発見』70頁)。
中国最初の有力文明国家 このように、前3000年、長江で初めて「巨大な城壁と基壇をもつ『都市文明』」が登場し(徐朝龍『長江文明の発見』49頁)、この良渚文化社会は、「巨大な建造物」、「整然とした玉器系統」のみならず、墳墓からも階級社会であったことが確認される(徐朝龍『長江文明の発見』71頁)。
もとより文字は文明の必須条件ではないが、「上海市馬橋遺跡、江蘇省呉県澄湖遺跡および余杭県内の遺跡などから出土した土器や玉器の表面には、意味不明な『記号』が多く刻まれてい」て、これは甲骨文字と同様に、「支配王朝が自らの社会統治と政治的優位を確立するという特定の目的」をもっていると推定されている(徐朝龍『長江文明の発見』72頁)。これは、殷時代の甲骨文字の源流かもしれない(徐朝龍『長江文明の発見』73頁)。
良渚文化は、「長江流域の先進性を代表」し(徐朝龍「黄河以前の高度な都市文明」前掲書63頁)、「極めて高い水準」の「稲作農業、製陶技術、玉器産業および建築技術」において、「同じ時期における東アジアの諸文明の中でも抜きん出た存在」(王明達「人工丘陵と巨大な柱が示す技術力」[稲盛和夫・梅原猛編『良渚遺跡への旅』PHP研究所、1995年]52頁)であったのである。
こうして夏国家より先に、中国初期国家とも言うべき「良渚国家」が長江下流域に出現したのであった(徐朝龍『長江文明の発見』65頁、西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、50ー1頁)。
崩壊 中国最初の文明国家である良渚国家は、紀元前2200年頃、大洪水で「突如崩壊」した(徐朝龍「黄河以前の高度な都市文明」前掲書65頁)。紀元前2000年代末期頃の良渚文化の上に洪水層があるので、「繁栄の頂点にあった良渚文明は突然崩壊」(徐朝龍『長江文明の発見』74頁)したことがわかるのである。それは、大洪水によるインダス文明の突然の崩壊と似ている。良渚文明にもインダス文明にも、大洪水による大災害の再興の目途はたたなかったということであろう。
なお、この良渚国家崩壊説に対して、岡村氏は、「洪水で廃絶したような遺跡は発見されていない」事、「しばしば洪水にみまわれた良渚文化の上海市馬橋遺跡や日本の古代水田がほどなくして復旧している」事から、崩壊危機を克服できなかった「社会・経済システム」に問題があったとする。つまり、岡村氏は、ブタ飼育では「食糧の一部をブタの餌に割かねばならないし、毎日の世話も大変」だから、「そんな無駄なことをするより、栄養価の高い米づくりにもっと精をだし、水田や湖の豊富な魚介類、田畑を荒らしまわるシカやイノシシを獲ったりするほうが経済的」だから、ブタ飼育が盛んであった良渚文化では紀元前2000年頃家畜飼育を止めて「狩猟と漁撈に比重を移」したのは、危機に対応しようとした動きだったであろう。しかし、「良渚文化や石家河文化における高度成長は、外見的にはめざましい繁栄をとげた反面、環境の限界をこえた人口増加、支配者による収奪の強化、内紛や対外戦争、自然災害などの社会不安と危機に直面」して、対応できずに「根底から崩れ去った」と主張したのである(岡村秀典「古代文明への視点」[鶴間和幸編『四大文明 中国』141頁])。
当時の生き残った人々の間では、その大洪水は、大地の人為的使用などに対して神への畏敬が不十分だったからではないか、それなるが故の神の罰ではないか、その忌まわしい地に王民の生活を再建してもよいのか、仮に再建するにしても洪水対策の大治水工事の能力があるのかなどなどが、議論されたことであろう。そういうことを踏まえて、王朝はこの地を放棄し、長江を離れて黄河方面に北上したということであろう。実際、黄河中流域でも「良渚文化と密接な関係をもつ同地域の山東龍山文化圏」もまた「壊滅な打撃を受け」ていて、これと「北上し黄河流域に入」った「良渚文明の難民の一部」が合流して、「中国最初の王朝国家とされる『夏王朝』(紀元前21−17世紀)」を生み出したようだ。つまり、「良渚文化難民と山東龍山文化難民(の連合軍)と黄河中流域の土着民族(黄帝)とが闘争、融合を繰り広げた歴史的真実」がこれをを裏づけているのである(徐朝龍『長江文明の発見』75頁)。これは夏王朝のところで再述されよう。
こうして、「良渚文明の崩壊という当時東アジア世界における大事件がもたらした衝撃波によって、当時長江流域より立ち遅れていた黄河流域に本格的な都市文明の誕生が実現する契機を与えた」(徐朝龍『長江文明の発見』76頁)のであった。
E 馬橋文化(前3000年ー)
前3000年、「大規模な水害」、「気温の冷涼化」で「祭政権力」や「軍事権を基礎」とした良渚文化は終焉して、南方から北進した「洗練度の低い馬橋(ばきょう)文化」に移行した(宮本一夫『中国の歴史』157頁)。この馬橋文化では、「狩猟・漁撈の比重がふたたび高まり、良渚文化に比べて稲作農耕が後退」(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、56頁)した。
馬橋文化以降でも直角鎌が多く出土し半月形石包丁も盛行し始め、収穫農具のみならず、魚肉・獣肉の調理道具も広く普及した(槇林啓介デジタル論文「中国先史・古代における稲作社会の多元的形成の研究」)。
5 長江上流の稲作文化
三星堆文明 長江上流の四川省広漢市近郊の南興鎮三星堆村では、三星堆文明が展開した(徐朝龍『長江文明の発見』163頁)。長江中下流の稲作が影響したのかどうかを確認する文献はなかったが、一定度の影響があったとみるのは不自然ではあるまい。
前3000年、「繰り返して起きた洪水が治まり、次第に平野部に定住集落が増え、人口も急増」し、各部族は「争いを繰り広げ」、「巨大な城壁をもつ中心集落を建造」(徐朝龍『長江文明の発見』165頁)した。そういう中で、三星堆村は「小高く、扇状地の先端の最も肥沃な部分」にあたり、「盆地南部をたびたび襲う北部河川による大洪水の被害が避けられる立地条件は、稲作農耕を基礎にした定住集落の安定的発展を保証」(徐朝龍『長江文明の発見』165頁)した。放射性年代測定によれば、前2800年から前850年(徐朝龍『長江文明の発見』166頁)のことであった。
三星堆遺跡(三星堆文化)は、第1期(前2800−前2000年、龍山文化時代(五帝時代)に相当)、第2・3期(前2000−前1200年、夏・殷時代に相当)第4期(前1200年ー前800年)の4期に細分される。三国志の時代、この地方を蜀といったことに因み、三星堆文化を古蜀王国と称する場合もある。
第3期の紀元前16世紀頃、三星堆村は、「巨大な版築城壁に囲まれ、南北約2千m、東西およそ1600m、総面積が2.6km2」という「とてつもない大古代都市」(殷王朝前期の首都である鄭州二里崗商城に匹敵)であった(徐朝龍『長江文明の発見』164頁)。
蜀王朝 「周王朝が殷王朝を覆す戦争を決行した時、四川西部を中心とした独自の文化圏をもつ・・蜀王国は一大勢力として周の主導した同盟軍に加わり、『殷周革命』に一役買った」(徐朝龍『長江文明の発見』177頁)のであった。
四川歴史書の『蜀王本紀』(前漢時代)、『華陽国志』(東晋時代)によると、土着の蜀王魚鳧(ぎょふ)が外来の蜀王杜宇によって殺され、ここに三星文明は滅び、黄金の王杖などを「一号坑」に埋め、青銅製の神樹・仮面などを「二号坑」に埋めた(174頁)。
四川盆地では「年中曇る日が多く、中国全土の中で年間日照量』が最も少な」く、稲作に日照が不可欠であり。ここに太陽崇拝がおこり、「日の出入りに伴って空によく現われる『太陽柱』という自然現象が『扶桑』という想像上の太陽樹の誕生にきっかけにな」った(徐朝龍『長江文明の発見』177ー8頁)。
以上の長江流域で稲作が展開する中で、黄河流域では、麦作・雑穀栽培が展開した。広大な中国は、二つの農業を持つことになったのである。以下、、華北の農業開始・展開状況を見てみよう。
第三 黄河文明ー雑穀
1 黄 河
概観 黄河は、「全長は4945km(この点、劉昌明氏[中国科学院地理科学・資源研究所]は5400km[「黄河流域における環境変化にかかわる水資源の脆弱性」愛知大学報告aichiu.ac.jp/archives/report])、水源から河口までの総落差は4300m」で、「平均流水量は揚子江の1/28」(中島健一『河川文明の生態史観』校倉書房、1977年、167頁)である。
1954年調査で、「黄河流域の耕地面積」は6560万ha、中国全土の耕地面積に占める比率は40%」(中島健一『河川文明の生態史観』167頁)である。2000年には、北方地域(華北・東北・西北)は、@全人口の45%、全耕地面積の64%、A北方畑地は総畑地面積の80%を占めていた(周暁明「中国東北畑作地帯における機械化旱地農法之展開ー黒龍江省を中心に」『農業経営研究』東京農工大学、39巻1号、2001年6月)。故に、現在は、食料生産面では、長江流域と同様に大きな役割を占める地域であり、畑作では圧倒的比重を占めている。
また、「黄河の中・下流流域の全年降水量」は、平均は500−600mmであり、「揚子江流域の1/3、華南地方の1/4以下であ」(中島健一『河川文明の生態史観』169頁)る。2000年頃でも、北方地方の水資源は全国の19%しか占めておらず、故に、北方農業では、「特に水資源の不足による旱魃にどう対応するかに大きな英知が注がれ、この地特有の農法ー旱地農法が生み出された」のであった(周暁明「中国東北畑作地帯における機械化旱地農法之展開ー黒龍江省を中心に」『農業経営研究』東京農工大学、39巻1号、2001年6月)。また、「天津では7月に188mm、8月に152mm、太原や済南、西安でも降雨は7−8月に集中」し、この気候条件では、「畑地土壌の塩害さえなければ、温帯北部における天水農耕の可能な栽培限界をしめしている」のである。
こうした黄河の流域には、黄河中流では陝西省・内蒙古自治区・山西省、黄河下流では河南省・河北省・山東省があった。そして、後者の黄河下流は、「開封市の北方で多くの細流にわかれて、北は北京市から南は徐州市にいたる河北省、山東省の平原に網の目のごとくひろが」り、「九河」と呼ばれ、「多数の分流の形成するデルタを九州と呼んだ」(落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』30頁)のであった。
黄河の洪水 黄河には、季節的氾濫(「夏の氾濫の季節」、大雨の9−10月、融雪の3−4月の氾濫)と、泥土が流れを閉塞して逆流して起こす氾濫とがある(中島健一『河川文明の生態史観』169ー170頁)。殷代から3000年間に、黄河の堤防決壊が1500回以上、河道移動が26回を数えた(中島健一『河川文明の生態史観』176頁)。
後者氾濫について補足すると、黄河は、秦嶺山脈あたりまで、「両岸は黄土層の断崖絶壁」であり、「河水一立方メートルにふくまれる土砂は、年平均34キログラム」あり、これが堆積して「河底は百年に30センチメートルの割合で高くなり、天井川となって氾濫を起こしやすくなる」(落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』ちくま新書、2008年、29頁)ということである。「黄河の運んでくる泥土の量は世界第一位であ」り、「黄河の運んでくる1年間の泥土量は14−16億トン」もあるだけに、「沈積して、自然堤防をつくり、河床をたかめ」、「下流地方では典型的な凸状の天井川を形成」したのである(中島健一『河川文明の生態史観』170頁)。
こうして、黄河は、季節的氾濫とは別に河川移動氾濫があって、絶えず洪水を起こしていた。従って、黄河氾濫は「ナイル、ユーフラテス川ほどの規則性がなく」、「中国の華北平原における農業は、他の古代文明国ほど純粋な灌漑農業でないことが、もっとも大きな相違点」(貝塚茂樹編『古代文明の発見』『世界の歴史』1、中央公論社、昭和42年48頁)である。
黄河の洪水と水路激変は、「『中原』の低地の住民を絶えずおびやかしてきた」ので、「水利工事以前の時代の古い聚落は、すべて河辺を離れた山の中腹か丘陵の上に営まれ」、古代都市国家は「山西高原の東縁をなす太行山脈の東麓に沿」い、平原地域では地下水が「塩分を多くふくんで水質が悪く、人の飲用に適する水を得る事が困難であ」(落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』ちくま新書、2008年、31頁)った。
黄土の成分と肥痩如何 黄土の発生説には、「ゴビ砂漠から飛来」説(リヒトホーフェン)、「スカンジナビアの氷河の動きによって形成されたレス」説は否定され、チベット高原の砂塵飛来説(「第三紀の末以来、ヒマラヤ造地運動によって、それまで海抜1000m程度だったヒマラヤ山脈から昆崙山脈にかけての青蔵高原は、5000から8000mに隆起し、これによってインド洋からの湿った空気が流入できなくなって乾燥」し、「青蔵高原表層の軽い土粒が風に吹かれ、関中盆地をはじめ、秦嶺以北、太行山脈以西を中心とする華北・華中の相当広い範囲に降る積もった」とする説)が容認されている(原宗子「土壌から見た中国文明」[鶴間和幸編『四大文明 中国』188頁])。
この黄土の肥痩如何については、黄土は、肥沃であるという意見と、「『肥沃』ではない」という意見(原宗子「土壌から見た中国文明」[鶴間和幸編『四大文明 中国』183頁])がある(原宗子「土壌から見た中国文明」[鶴間和幸編『四大文明 中国』187頁])。いずれが正しいのか。後者からアプローチしてみよう。
原氏にとっては、黄土の成分そのものは、「地表面に集積しやすい性質をもつカリウムの含有率が高」く、「細かく均等な粒子から成るので・・地下水の毛細管現象が発生しやす」く、「土壌内の元素は『風化』の度合い低い結晶の形で存在している場合が多く、植物が吸収いやすいイオンの形にはなりにくい」ので、「『黄土は肥沃だ』とはいえず、『ろう土』を除けば、むしろ『黄土からできた土は痩せている』といったほうが妥当」(原宗子「土壌から見た中国文明」[鶴間和幸編『四大文明 中国』189頁])なのである。
このような黄土は、あくまで「過去および現在の中国にある土壌を作った材料、『成土物質(日本語では土壌母材)』の一つ」(原宗子「土壌から見た中国文明」[鶴間和幸編『四大文明 中国』186頁])でしかないのである。この黄土を材料として土壌ができあがるわけであり、その土壌には、「その場所ごとにいろいろな種類があり、それらの性質は一様ではな」かったということになる。
つまり、黄土を素材にできた土壌としては、@「黄綿土」(「黄土が単に堆積しただけの土壌」であり、これは「黄土の性質そのままに、粒子が細かく粘り気のないこの土壌は植物の成長に必要な栄養分をイオンの形で根に供給しうる程度が低い」もの)、A「均腐土」(黄土の積もった場所が草原になった草原土壌で、この均腐土を「農耕地として長年利用した場合には、草の根や枯葉、作物の根や投入された肥料、ミミズの死骸などに含まれていた有機質が土の中で堆積した」ものだが、「カリウムやリンなどの栄養分が流失」すると、「繊維質などだけが黒く残」る)、B「褐土」(「黄土の積もった場所が森林にな」ってできる「茶色っぽい森林土壌」)、C「ろう土」(「『褐土』や『均腐土』の存在していた場所を開墾して農業に利用し、継続的に耕作・施肥を続ける」と発生する「肥沃な土壌」)があるのである(原宗子「土壌から見た中国文明」[鶴間和幸編『四大文明 中国』187−8頁])。中国耕地が均腐土・褐土であったということは、「石器時代以来の中国農業も、世界の多くの地域同様、森林や草原だった土地を耕地化して始まった」ことを示している。
従って、黄土が肥沃であるという場合、それは塩害対策を施した上で、ABの黄土をCのように使用するケースに限られるということになる。つまり、まず、黄土の毛細管作用を阻止するために、「ゆうとか耙(は)とか労とかよばれる土壌撹攘作業(「地表面の土を特に細かく砕いたり、逆に表面だけを固めたりして、地下深くから続く毛細管が直接地表に達しないようにする作業」)・中耕作業が中国農業、とりわけ華北旱地農法の中心」として活用された(原宗子「土壌から見た中国文明」[鶴間和幸編『四大文明 中国』191ー2頁])。次いで、肥料などを加えて「ろう土」をつくり、「耕起以後、耙や労などの作業と施肥を繰り返し、細かくばらばらな土粒に有機質を投入して、土粒と土粒がいくつも丸くからまった『団粒』を作るように念入りな耕作を繰り返すと、団粒表面には負の電荷が発生するので、水素や鉱物などプラスイオンが団粒に付着しやすくなる」のである(原宗子「土壌から見た中国文明」[鶴間和幸編『四大文明 中国』192頁])。
この結果、黄河では、「十年に一度あるかなしの豊作、天地人があい和した幸運の年にあたると、黄土の持つ豊かな生産性のおかげで、九年の不作を一気に取り戻すこともできた」とも言われたのである(梅原猛「中国史のなかの長江」[樺山紘一編『長江文明と日本』福武書店、1987年、16−7頁])。ただし、「黄土の持つ豊かな生産性」という場合、上記の如き限定なしに使っていると想定され、そのような流域もあったのかもしれない。上述の土壌分類には、氾濫源の肥沃性という観点が欠落しており、農業開始時期頃では、この土壌恩恵の方が大きかったとも推定される。黄河の運ぶ泥土には、「畑作物の生育・成長にとって有効な燐酸と加里の含有量が異常にたかい」から、水害がなければ、「まことに肥沃な作土」であったと思われるのである(中島健一『河川文明の生態史観』校倉書房、1977年、171頁)。武帝の時代には後述の通り灌漑が大規模に行われたが、同時にろう土も「比較的広く分布」していたという(原宗子「土壌から見た中国文明」[鶴間和幸編『四大文明 中国』199頁])。武帝期以前、ろう土はどうであったのかなどは、後考にまちたい。
黄河・淮河流域の生態環境 黄河・淮河流域の気候は、紀元前1万年は「洪積世末の氷河期」で「冷涼で乾燥」(黄強「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」前掲書50頁)であり、前6000年ー1000年は「温暖多湿」の「気候最適期」で、前500年は「涼しく乾燥した気候」であった。
氷河期遺跡は「黄河の中流域」の山間地帯に集中していたが、「最後の氷河期が終結して気候が暖かくなり、また大型森林動物が徐々に姿を消していくなかで、多種多様な動植物が繁殖する豊饒な大平原へと居住地を移し」、「食糧となる対象が森林動物から貝類、魚類、鳥類、亀類、穀物など、多種多様な動植物へと拡大し、単純な狩猟活動から採集、捕獲、漁撈、栽培など、各種の活動を複雑に統合する体系的な生業へと取って代わり」、さらに「湿地帯に生育する野生稲の採集も始まり、その採集活動が強化されて、やがて平原における稲の栽培へとつながって」いった(黄強「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」前掲書54頁)。
つまり、長江中・下流域に住んでいる人々は、「湿原地帯の自然資源を利用し、野生稲の採集、栽培化の道を選択して独自の稲作文化を生み出」したのに対して、黄河・淮河流域に住んでいる人々は、「野生稲の採集、栽培のほかに、またアワ、キビなどの雑穀も採集、栽培し、稲と雑穀とが混在する農耕文化を創造」したのである(黄強「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」前掲書54頁)。しかし、黄河流域の農業は緯度的には寒く稲作は不向きであり、雑穀などが中心とならざるをえなかった。例えば、2005年時点で、黄河デルタ地帯の山東省の農産物は、果物・落花生・野菜は全国1位、小麦・綿花は全国2位と、山東省は米生産の主要地帯ではないのである(デジタル資料 ジェトロ「山東省における農水産物の生産・輸出動向」2007年)。
また、長江の中下流域と黄河の中下流域の間には、「広い黄淮平原」があり、農業環境に向いていて、多くの新石器時代遺跡がある(黄強「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」前掲書40頁)。
雑穀栽培 長江流域におけるイネ栽培研究とは異なり、華北におけるアワ・キビなど雑穀の栽培化をめぐる農学的な研究は進んでいない」が、「黄河流域など華北の南部では、前6000年紀に降るころには、・・広葉樹が増え針葉樹が減少するなど、気温は着実に上昇して現在の年平均気温が近づ」き、「河川両岸の台地上や丘陵上に比較的小規模ながら集落を形成して、アワ・キビなどの雑穀栽培を生業として取り入れた初期の農耕集落が、確実に華北の中部・南部を中心に広が」った(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、山川出版社、2003年、30頁])。つまり、黄河流域では、「河南省の仰韶文化(紀元前4500−2000年)および山東省の龍山(紀元前2500−1500年)に象徴されるふたつのあわ・きび耕作の文化」などが展開した(中島健一『河川文明の生態史観』校倉書房、1977年、161頁)。
では、黄河流域では麦栽培が行われていたのか。西アジアでは「初めから麦類を中心とし、家畜は羊・山羊」だったが、黄河では「耐旱性の禾(アワ)・黍(きび)の栽培が中心であり、家畜は豚」であり、「麦(おおむぎ)の栽培は、かなりおくれて、殷代に始められた」(中島健一『河川文明の生態史観』校倉書房、1977年161頁)のであった。しかし、近年、殷時代以前にも小麦栽培が行われていたことが明らかになってきている。華北にはコムギの野生種は存在しないが、山東省えん州西呉寺遺跡、陝西(せんせい)省武功県趙家来遺跡では「龍山時代のコムギの可能性が指摘」され、甘粛省民楽県東灰山遺跡では「四ハ文化のコムギやオオムギの実が出土」し、最近では、「華北においては龍山時代からはコムギが存在しているということは明確」(宮本一夫『中国の歴史』講談社、2005年、85頁)なのである。
農業生産規模における黄河・長江の比較 こうして、「黄河流域ではアワ・キビを中心とした旱地農耕」が発達し、黄土に適した農具が使用されたが、「耕地は地形的制約が小さいために、生産規模は比較的容易に拡大し、人口が集中した大きな集落が生まれやすく」、竪穴式住居が発達していた(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、山川出版社、2003年、8頁])。
それに対して、長江流域の稲作では、地形制約で「耕地の拡大は必ずしも容易ではなく」、その結果、「集落の数は多いが、集落単位の面積は比較的小さいという傾向」を示し、「多雨多湿と夏季の猛暑ゆえに、住居は地面建築・基壇式建築・高床式建築が採用」された(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、8頁])。米が雑穀・麦より生産性が高いとしても、黄河の方が耕地規模は大きく、これが黄河文明を支えていたようだ。
確かに、長江中・下流域では稲作だけを行なったのに対して(黄強「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」前掲書45頁)、黄河流域ではあくまで雑穀栽培が中心であり、稲作は副次的であり、しかも焼畑であって、あくまで粟麦作農業に基づいていた(徐朝龍『長江文明の発見』179頁など)。それは、生産性の高い稲作を全面的に普及させようとしても、黄河流域では自然環境的にそれは困難だったということである。しかし、長江流域の稲作と、黄河流域の粟黍作とは、各地の農耕適正に照応しで中国全体の農牛生産力を増加させるものだったともいえよう。
以下、黄河流域の雑穀・麦作などを中心にいかなる文化が展開したのか を考察してみよう。
2 黄河流域の雑穀文化
@ 黄河中流域
@ 磁山・裴李岡文化
磁山文化 山東省黄河中流域では、紀元前6000年ー前5500年頃に磁山文化が展開し、雑穀が栽培された。この磁山遺跡は「小河川に臨む丘陵上にあり、稲作と同じように水の便がよい沼沢地で穀物を栽培」し、連作障害に対処して「アワ、キビ、豆類などが順番に栽培され」、そこからは、「炭化したアワ、土掘り用の石スキや収穫用の石鎌などの農具が多く出土」した。この頃は、「直径3mほどの竪穴住居がいくつか集まった、数十人ていどの集団」であった(岡村秀典「古代文明への視点」[鶴間和幸編『四大文明 中国』133−4頁])。
磁山遺跡には88基の貯蔵穴があり、ここには、「大量の粟が腐朽して灰化したものが堆積しており、これらは新鮮な粟に換算すると、約5万kgに相当」し、「このような大量の食物の備蓄などによって、この時期の新石器文化に示されている原始農耕の生産水準はすでに発生期の段階をはるかに超えており、相当に発達した水準になっていた」(王小慶『仰韶文化の研究』雄山閣、2003年、18−20頁)とされている。黄河流域では、粟の生産性は相当に高かったようだ。因みに、この頃の河姆渡遺跡の第4層からは10万kgの稲に相当する「大量の稲の残留物」が発掘されていて(王小慶『仰韶文化の研究』74頁)、長江下流の米作の生産性はそれを上回っていたようだ。
裴李岡文化 河南省黄河中流域では、紀元前7000−前5000年頃に斐李崗(はいりこう)文化が展開し、粟などが栽培された(徐朝龍『長江文明の発見』44頁)。
この裴李岡文化の時期に、「人びとは徐々に山地(山西省あたりの)から離れ、河谷を通って平原地域に拡張し」、「農耕経済」を生み出して、人類史上で「1つの飛躍をおこなった」(陳星燦「黄河流域における農耕の起源:現象と仮説」『
国立歴史民俗博物館研究報告 』119、2004年3月)のであった。
稲作痕跡ー賈湖遺跡 裴李岡文化に属する遺跡でも、栽培稲の北限たる北緯33度より以南で、「長江より北、黄河に近い淮河の支流」流域からは、長江稲作の影響をうけてか、稲作の痕跡が発掘されている。長江中流域に近い「黄河流域の粟作農耕文化圏の人々」が、「そこから栽培稲を自らの生業の中に導入」したようだ(徐朝龍『長江文明の発見』44−5頁)。
その代表的なものの一つが、裴李岡文化に属する賈湖遺跡(河南省舞陽県)からは「8千年前の炭化稲と稲殻」が発掘されている。河姆渡文化より1千年前で、彭頭山文化の稲とほぼ同じ時代であり、中国最古の栽培稲(ジャポニカ)とされている(黄強「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」前掲書41−2頁)。この賈湖遺跡は、「長江流域の稲作が、温暖湿潤な気候を背景に黄河の南側にまで北上」(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、37頁])したことを示している。なお、二澗村遺跡(前5千年前)からも「籾殻を含んだ焼けた土の塊」が採集されている(黄強「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」前掲書40頁)。
こうした平地での農耕の着手に伴って、「竪穴住居跡が主体となる集落遺跡」も出現する(王小慶『仰韶文化の研究』72頁)。
A 仰韶文化
1921年に仰韶文化が発見され、中国にも新石器文化があることが史上初めて明らかとされた。それから90年後の2011年11月6日、中国で仰韶文化発見90周年記念大会が開催され(「中国河南省:仰韶文化発見90周年」『済龍』2011年11月7日)、仰韶文化は中国文明史上で重要な遺跡であった事が再確認された。この仰韶文化は、「分布地域と年代」によって類型区分され、中心地域の関中地区では、「半坡類型→史家類型→泉護類型→半坡晩期類型」に編年されている(王小慶『仰韶文化の研究』24頁)。
仰韶は黄河中流域(河南省・山西省・陝西省)の河南省北部に位置し、ここではキビ、ヒエ、アワなどの雑穀が栽培され、彩文土器(彩陶)、磨製石器が使用されていた。まず、気候から瞥見してみよう。
気候 仰韶文化(前5000年ー前3000年頃)・龍山文化期(紀元前3000−2000年頃)は、「温暖・湿潤な大西洋気候期(紀元前5600−2500年)」にあたり、花粉分析によると、「華北平原には低湿地がひろく分布し、その丘陵や高地には密林や潅木叢の植生がみられた」(中島健一『河川文明の生態史観』校倉書房、1977年、62頁)のであった。
特に「前5000−前4000年紀を中心とした仰韶文化期のころの中国大陸は、ヒプシサーマル期と呼ばれる完新世の最温暖期をむかえ」、「温暖湿潤な森林草原の環境が出現」し、「農耕集落にとって好適な環境」(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、36頁)であった。
さらに紀元前3000年の新石器時代中期以後の新石器時代後期には温暖湿潤期となって、古環境は変動した(宮本一夫『中国の歴史』111ー5頁)。
稲作 仰韶文化期には、主に粟を耕作し、摂取食物に対するアワ・キビの割合は、50%(前5000−前4000年紀の仰韶文化期)を占めていた。この割合は中原龍山文化期(前3000年紀)には70%に増加している(蔡蓮珍ら「?十三測定和古代食譜研究」『考古』1984年10期[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、山川出版社、2003年、37頁])。
だが、上述の賈湖遺跡と同様に、中には麦や米を耕作した村もあった。例えば、紀元前5000−3000年の仰韶・大ぶん文化(「ぶん」の字はサンズイに文)の主な稲作遺跡として、淅川の下王崗遺跡、洛陽の西高崖遺跡、鄭州の大河村遺跡、西郷の何家湾遺跡、華県の泉護村遺跡などがあった(黄強「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」前掲書42頁)。
紀元前2000年以降には、「遺跡の分布も長江の上・中流域と黄・淮河の中・下流域になるが、稲粒はそれぞれ地方特有の形・大きさのもの、短・円粒、長・大粒、短・狭粒などの地方品種に分化したものになっている」(和佐野喜久生「稲作の江南起源説」」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年]151頁)のである。
これは、黄河中流域の主作はあくまで粟だが、栽培条件さえ適応すれば、栄養価が高く、連作障害がなく、生産性の高い稲作が北進する状況を示しているといえよう。しかし、焼畑稲作も並存していたのであろう。
土器・石器 仰韶文化の基本的な性格は、「粟を主とする原始農耕を行い、家畜を飼育し、土器を製作し、定住集落と集中埋葬地が存在し、土葬が行われ、葬制はその時期と場所とによって変化している点である」(王小慶『仰韶文化の研究』24頁)と言われる。
土器は、「ろくろの使用によって成形され、夾砂紅色土器と泥質紅色土器を主としている」。仰韶文化には、「平底の土器が多く、三脚や圏足の土器はほとんどな」く、「彩文土器が普遍的にみられ、彩文はふつう泥質紅色土器の盆・鉢・罐の類の外面上方に施され、文様帯を構成している」(王小慶『仰韶文化の研究』24頁)のである。
磨製石器には、斧・庖丁などがあるが、石鎌は出土していない(王小慶『仰韶文化の研究』24頁)。
階層社会展開 こうした農業の展開で、黄河流域の陝西省・河南省などでは社会階層が分化していったことが確認される。
早期の半坡類型の陝西省姜寨(きょうさい)遺跡(渭川(黄河支流)流域の陝西省臨潼(とう)県)では、直径150mの環濠に囲まれた「求心的にまとまる集落」跡が発掘され、人口200人と推定される。まだ「墓壙規模の大小や副葬品の多寡は顕著ではな」く、「経済的格差が小さい等質的な社会」で、リーダーには特権はなかった(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、37−8頁])。そして、ここの村人たちは。「共同して農作業をおこない、ときどき広場に集まっていろいろな儀式を行っていた」ようだ(岡村秀典「古代文明への視点」[鶴間和幸編『四大文明 中国』]134頁)
やがて中期の姜寨遺跡(新石器時代中期の紀元前4500年頃)では、「四集団によって外婚規制による安定した双分制が存在」し、中・小型住居の周りには多くの貯蔵穴があり、「一単位家族ごとにすなわち住居単位で管理」した。広場近くには「大型家畜囲い込み場」があり、集団で管理された。「土器を焼く窯も二ヵ所に分かれて存在」し、「三つの墓地群」(宮本一夫『中国の歴史』118ー122頁)があった。
姜寨遺跡後期では、@「集会所として利用される大型住居」が「はるかに大きくな」り、A4集団のうち1集団がこの地で肥大化し、残り3集団は「周辺に拡散」したと推定され、B最終的にこの地は「集団の故地」として「血縁単位の集団合葬墓」となる(宮本一夫『中国の歴史』123−124頁)。
「婚姻によって女性が他集団へ嫁ぐといった仰韶文化史家(陝西省渭南県史家)類型段階は、次第に男系の血縁集団が社会の基礎単位にな」り、新石器時代後半期には「男系血縁集団が社会の基礎単位にな」っている。この父系血縁集団を単位として世帯家族が拡大したものとして、長屋式住居が登場する(宮本一夫『中国の歴史』125−7頁)。
新石器時代中期末期、河南省鄭州市西山遺跡では城址(「土塁すなわち城壁で取り囲まれた集落」)が出土し、新石器時代後期にはこの城壁集落は「各地(黄河中流域の山西省襄汾[じょうふん]県陶寺遺跡[1500m×1800m]、河南省新密市古城寨遺跡[460m×370m]、輝県孟荘遺跡、淮陽県平糧台遺跡、登封県王城崗遺跡など)で普遍化」し、「より防御的機能の高まっ」た巨大な城も登場した(宮本一夫『中国の歴史』127−9頁)。
新石器時代後期には、墓規模、副葬品などで「階層格差の進展が陶寺遺跡の墓地において示され」(宮本一夫『中国の歴史』129頁)るようになった。
一方、前4200−前2600年、山東省(黄河下流域)の大ぶん口文化期には、「安定した農耕生産を背景に階層分化」が進展した。新石器時代後期の大ぶん口文化後期から山東龍山文化期には「男系氏族社会」中心の「血縁家族単位の階層格差」が拡大し、欒豊実氏は「三段階の階層構造」(「規模の大きい中心的な城」、その周囲の「規模がやや小さい衛星的な城」、それを取り囲む「城壁をもたない一般集落」)が成立したとする(宮本一夫『中国の歴史』134−140頁)。
B 中原龍山文化
龍山文化 龍山文化は、前期(前3000−前2600年)の黄河中流域の中原龍山文化(河南龍山文化、渭河沿いの陝西龍山文化)、後期(前2500年〜前2000年)の黄河最下流の山東龍山文化などに分けられる。この龍山文化の特徴は、都市の出現、雑穀・稲栽培や手工業の発達である。
稲については、河南省汝州の李楼遺跡から「栽培されたジャポニカとインディカ」「野生稲」が発掘された。その他、扶風の案板遺跡、棲霞の楊家圏遺跡、固鎮の濠城遺跡からも稲が発掘されている(黄強「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」前掲書40−42頁)。いずれも焼畑であろう。
中原龍山文化 黄河中流の中原龍山文化(前2700−前2200年)は、仰韶文化(前5000年〜前3000年)の延長線上にあり、この地では、農耕(粟、麦、焼田による米)が行われ、家畜(豚、牛、羊、山羊)が飼われ、原始的な養蚕も行われていた。
まず、陝西龍山文化(紀元前2300年ー前2000年)は、@陝西省西安市客省庄遺跡・斗門鎮遺跡・米家崖遺跡・長楽坡遺跡・趙家湾遺跡・岐山双庵遺跡・興平張耳村遺跡・武功趙家来遺跡など、渭河・河流域に分布し、A「分業により、農作技術や生産工具が改良され、建築技術も向上し」、泥質の灰陶で籃紋・縄紋の土器が作られ、「余剰生産品がうまれ、私有財産制が芽生え、貧富の差が生じ、階級が出現し」、B「斉家文化と密接な関係(中国科学院考古研究所『?西発掘報告』1963年、文物出版社)」があった(小松孝夫デジタル論文「中原龍山文化」)。
次に、「河南龍山文化」(紀元前2700年ー前2200年)は、@豫西・豫北・豫東一帯に分布し、王湾三期類型・後岡二期類型・造律台類型(李仰松『中国考古学会第一次年会論文集』文物出版社、1980年、厳文明「龍山文化和龍山時代」『文物』1981年6月、中国社会科学院考古研究所『新中国的考古発現和研究』文物出版社、1984年)などに分類され、A王湾三期類(なお、王湾一期は仰韶文化廟底溝類型、王湾二期は仰韶文化秦王寨類型[紀元前3390年])は、河南龍山文化(紀元前2390年)で廟底溝二期文化の発展したもので、煤山・燉寤笞ャなどの地層関係・文化内容が王湾三期類型から二里頭文化への発展過程を示し、夏文化の前身的な中原地区原始文化であり、B後岡二期類型(紀元前2700年ー前2200年)は豫北・翼南一帯に分布し、河北磁県下潘汪遺址・邯鄲亀台遺址・邯鄲澗溝遺址・永年台口遺址・河南安陽後岡遺址(黄河中流域の新石器時代仰韶文化・河南龍山文化と商の遺址が三畳層になっている)・大寒遺址・八里庄遺址・湯陽白営遺址などが発掘され、山東龍山文化との関係が密接であり、C造律台類型は、豫東・盧西南黄河南岸蜷マ平坦の南北狭長地帯に分布し、沈丘乳香寺遺址・淮陽平粮台遺址・永城黒瘻ヘ遺址・造律台遺址・王油坊遺址・商丘塢墻遺址・竚ァ周龍崗遺址・山東曹県纖n集遺址・山東梁山青瘻ヘ遺址などが発掘され、山東龍山文化との関係が密接で、一部に後岡二期類型に属する陶器も見つかっている(小松孝夫デジタル論文)。
さらに、A王湾三期類文化を掘り下げると、この時期の嵩山南北には、「頴河流域の登封盆地(軍事的役割をする囲壁をもつ王城崗遺跡がある)や禹州盆地、北汝河流域の汝州盆地、伊河上流の伊川盆地、そして嵩山北側の洛陽盆地など、淮河・黄河の支流沿いの盆地的な地理単位と結びついて、王湾三期文化を共有し、長径20−40キロ程度の範囲でまとまりをつくる多数の集落群がみられ」、「なかには70万ー80万平方メートルのやや大きな中心集落」があった(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、62頁])。これが、後述の二里頭文化の基礎になってゆく。
また、Bの後岡遺跡(河南省安陽市)を掘り下げると、ここでは、「城郭内の発掘によって、多数の小型住居が密集する集落の実態が明らかにされ」、一定の住居(床面積が「20平方m未満、およそ十畳一間の住まい」で家族4、5人が居住できる。敷地面積は100平方m)が「相互に等距離を保って秩序正しく配置され、「数世代にわたって住居がほぼ同じ位置に何度も建て替えられ重なり」、かつ「矢じりを主とする対人用の武器を多く備えて、集落の全体が武装化」している。従って、「密集した規則的な住居配置は、こうした戦時態勢として、住民の画一性と連帯性を強めることによって出現」したのであった(岡村秀典「古代文明への視点」[鶴間和幸編『四大文明 中国』日本放送出版協会、2000年、138頁])。この事は、「中原地区の龍山文化期には、同時期の長江中・下流域や山東地区のような地域的社会の統合は成立して」おらず、「顕著な中心集落がなく、分節的な小地域単位が競合するような地域」もあって、「中原地区にはさまざまな地域システムが並び立っていた」(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、44頁])ことを示している。
A 黄河下流域
黄河下流域、つまり華北東部の山東地区では、後李文化(紀元前6500年頃ー前5500年)ー北辛文化(紀元前5300年頃ー前4100年頃)ー大ぶん口文化(紀元前4100年頃ー前2600年頃)ー山東龍山文化が展開した。そして、前3000年紀中頃には、大ぶん口文化から山東龍山文化に移行し、この頃「囲壁集落が数多く建設され、集落規模が数段階に区分されるような階層化した集落群が出現」(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、45頁)するのである。
大ぶん口文化 黄河下流域における新石器時代中期文化は大ぶん口文化であり、「大ぶん口文化は早期、中期、晩期の3時期に分けられている」(王小慶『仰韶文化の研究』24頁)。
「発掘調査された大ぶん口文化の遺跡はほとんどが墓域で、土器やブタの下顎骨などの副葬品が多く、一部の墓は木槨を伴っている点がその特徴である」(王小慶『仰韶文化の研究』24ー5頁)。墓の副葬品としては、「ブタの下顎骨・頭骨、及びブタ型の土製品など」があり、「ブタの飼育の盛行」を示している(王小慶『仰韶文化の研究』26頁)。そして、農耕拡大を背景に、「墓壙の規模と副葬品の多寡」に格差があり、「集落間の格差が顕在化」した(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、38頁])。
住居跡の検出が少なく、「この文化の集落構成の様相はまだ明確になっていない」(王小慶『仰韶文化の研究』26頁)といえる。
土器は、「紅色のものを主としており、彩文土器も豊富に出土し」、代表的器形としては「高い足をもつ鼎、透孔のある豆(高杯)、壺、かまなどがある」(26頁)。
山東龍山文化 黄河最下流の山東龍山文化は、山東省を中心に北は河北省から遼東半島南部に、南は江蘇省中部に分布する。黄河下流の山東省歴城県竜山鎮で黒色土器がつくられ(貝塚茂樹編『古代文明の発見』『世界の歴史』1、中央公論社、昭和42年、50頁)、これが山東龍山文化の標準遺跡となる。基本的にはこれも仰韶文化を継承し、大ぶん口文化(前4100年〜前2600年)の延長線上にある。
山東龍山文化遺跡1500ヵ所のうち60ヵ所あまりが発掘され、山東龍山文化は大ぶん口文化堆積の上に位置していることが分かっている。そして、数多くの陶器を通して、研究者は文化の分期(3期説・4期説・6期説などの諸説)及び型式分類(両城鎮・城子崖・尹家城などはそれぞれ区域の代表遺跡である)の研究を行い、さらに、10数ヵ所の城跡の発掘に基づいた「陶器群の特徴及び制作方法・玉石器の形制・住居跡や墓葬の時代特徴など」の考察によって「山東龍山文化の基本様相は徐々に判明」してきている(于海広著、劉海宇訳「山東考古研究概略」[岩手大学「平泉文化研究センター年報」2013年1月])。
つまり、山東龍山文化の主要集落群としては、章丘群(城子崖遺跡を含む)、荘平東阿群(32集落、うち5集落は囲壁)、陽谷梁山群(18集落、うち2集落は囲壁)、丹土(25万uの囲壁集落)、41集落群(両城鎮遺跡を含む)などがあり、「各集落群は、中心集落をもちながらまとまりある分布を示しており、それぞれが政体の単位に相当」している(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、46頁)。例えば、冒頭の山東省章丘県城子崖遺跡では、「城壁をふくむ面積が20haあまり、これを中心とする半径20キロの範囲に、面積が3から6ヘクタールの中規模の集落(城壁のあるものとないものがある)が7カ所、面積が2ha以下の小集落が30カ所あまり分布」している(岡村秀典「古代文明への視点」[鶴間和幸編『四大文明 中国』137ー8頁)。
このように階層化された集落群は、初期国家ともいってよいであろう。
B 黄河上流域
黄河上流域では、新石器時代中期に馬家窯文化、新石器時代晩期に斉家文化が展開した。
馬家窯文化 馬家窯文化で「最も重要な特徴は彩文土器」で、出土土器の20%−50%を占め、副葬品の80%に達している。「これらの彩文土器の造形は非常に美しく、彩文文様も絢爛多彩であり、これは当時の土器製作技術が高水準に達していたことを反映している」(王小慶『仰韶文化の研究』雄山閣、2003年、23頁)
この馬家窯文化は、「最初に甘粛省東部地区、西部地区で登場した後、徐々に東から西に拡張し、晩期の馬厂類型期に、青海省の西部までに進出していた」(王小慶『仰韶文化の研究』24頁)のである。
C 夏王朝
以上の黄河流域における雑穀などの展開を起動力に、黄河中流域では、「龍山文化につづいて二里頭文化(夏王朝)、二里岡文化(殷前期)、殷墟(殷後期)文化が継起」したのである(岡村秀典「古代文明への視点」[鶴間和幸編『四大文明 中国』142頁])。まず、中国最初の統一王朝「夏」から考察してみよう。
二里頭文化ー王湾三期文化・良渚文化との関係 「黄河と長江にはさまれた河南省」という地域は、華北と華南が衝突して、夏、殷など「多くの漢民族の王朝が興亡を繰り返」(諏訪春雄「稲を運んだ人びと」[諏訪春雄・川村湊篇『アジア稲作文化と日本』雄山閣、平成8年]76頁)した所であった。
前述したように、夏王朝以前に、既に「王朝国家だったと思われる良渚文明、石家河文明などが長江流域で立派に栄えて」いた(徐朝龍『長江文明の発見』17頁)。この良渚国家の滅亡後に、黄河中流域に「玉器や良渚式の土器や生産道具などが姿を現わし」、河南省偃師県の二里頭には「大基壇をもつ宮殿」を備えた「夏王朝の首都」が登場した(徐朝龍「黄河以前の高度な都市文明」前掲書65頁)。夏文化には、「玉器、土器、漆器、巨大基壇など、その基礎的部分に良渚文化の影響が強く認められ」るのである(徐朝龍『長江文明の発見』76頁)。つまり、二里頭には、良渚文化の「青銅容器・玉器に代表される制度化された祭政的システムに関連する初期の『礼』制上の道具立てが伴」っていることが留意されるのである(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、60頁])。
これは、長江下流の良渚文化の生き残りが、「その先進的な文化と技術(国家づくりの知識、成熟した宗教体系および玉器製造の『ハイテク』など)を携えて北上し、黄河中流域の河南龍山文化圏に入」り、「彼らの文化が現地の文化と混合」して、ここに夏ができたことを再確認できるの(徐朝龍「黄河以前の高度な都市文明」前掲書66頁)。良渚文化は「黄河流域の歴代中原王朝に抹殺」(徐朝龍『長江文明の発見』77頁)されたが、こうした良渚文化の残党が「黄河流域に入って在地文化と混合して」夏王朝を形成したのである(徐朝龍『長江文明の発見』191頁)。
こうして、二里頭文化(夏王朝)は、王湾三期文化(河南龍山文化)の「嵩山南側の集落群のまとまり」が、二里頭大集落に「大きく統合」されて成立したたと推定される。「二里頭文化が王湾三期文化を基礎に生まれ、やがて周囲にその分布域を拡大」し、「重層的な文化体系をつくりあげてい」ったのである(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、62ー63頁)。
黄帝の先駆的統一 梅原猛氏は、中国最初の統一者「黄帝」が、良渚の支配者「蚩尤(しゆう)」を滅ぼして、中国を統一し、黄河流域に王朝の都をつくったとする(稲盛・梅原対談「古代文明が語りかける」[稲盛和夫・梅原猛編『良渚遺跡への旅』PHP研究所、1995年](22頁)。正確に言えば、夏王朝が成立する過程で、最初にそういう方向の第一歩を踏みだしたのが黄帝ということになろう。
紀元前3300年ー前2200年頃、北方の黄帝(「ギルガメッシュに比すべき」中国初代皇帝。「小麦農業と牧畜を生産の基礎とする」)が蚩尤(しゆう)の築いた「稲作文明を基礎とした江南の文明」を滅亡して、「華北の地に新しい文明を作った」のである(梅原猛「総論 農耕と文明」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』(講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、4頁)]13ー5頁)。ここに、「北方民族によって南方が支配される歴史」(稲盛・梅原対談「古代文明が語りかける」[稲盛和夫・梅原猛編『良渚遺跡への旅』PHP研究所、1995年]29頁)中国史が始まったのである。
このように、黄帝が天下を統一できたのは、「良渚は、稲作を基本とした農耕民族で、やはり『平和ボケ』してい」たが、黄帝率いる民族は「騎馬民族で、そして武器がよ」く、「やはり軍隊が強かったから」(稲盛・梅原対談「古代文明が語りかける」[稲盛和夫・梅原猛編『良渚遺跡への旅』PHP研究所、1995年]29頁)とする考えがある。これはこれで十分傾聴に値するが、同時に、北方の侵略性の基底には、北方の雑穀の生産性は江南の米の生産性より低く、故に雑穀主食民族は不作などがあった場合には十分に自足できずに、侵略性をを帯びざるをえなかったという切迫した事情があったことも留意されよう。
この黄帝は、「三皇五帝」のうちの五帝の最初である。本来は「『三皇』と『五帝』の間・・明瞭な区分はな」く、三皇は9名(五帝の一部との重複者[伏義、神農、黄帝、少昊、??]、4名[燧人、女?、祝融、共工])から選択され、五帝とは12神人(伏義、神農、太昊、炎帝、黄帝、少昊、??、帝?、堯、舜、禹、湯)から選択された。湯王のみ殷王朝の始祖として実在したので、これを除くと、15神人となる。そして、戦国時代から、「より広範に諸族が交流し、漢族のなかに諸族が流れ込むなかで、各族の多様な開国伝説が混淆」し、ここに「堯・舜をはじめとする多様な神人が開国説話のうちに持ち込まれ」、戦国時代以降に三皇五帝(五行説の影響)の枠組みが整序された(松丸道雄「殷」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、104−6頁])。
つまり、三皇とは、狩猟を発明した伏羲、農業を始めた神農、火食を発明した燧人とされ、五帝とは、黄帝、堯、舜
などとされている。この黄帝が、「中国人たちの共同祖先」とされ、「炎帝、蚩尤といった敵を征服」し、「文化的には文学、医学、算数、養蚕、舟、車、音楽などを発明」したとされている
(徐朝龍「黄河以前の高度な都市文明」[稲盛和夫・梅原猛編『良渚遺跡への旅』PHP研究所、1995年、60頁)。
堯・舜・禹と夏王朝 『史記』によると、「夏の堯・舜・禹」が皇位継承問題から「中原から江漢平原(「長江と漢水が合流したところに開けた巨大な湿地帯。苗族故郷の洞庭湖、長江文明の象徴たる城頭山遺跡があった)へ進出」し、三苗と戦った。「堯が亡くなったあと、三苗側が擁立した皇帝候補・・丹朱(堯の息子)」が漢民族側に拒まれ、「三苗は丹水の戦いで破れ、分裂」し、一部が西北に、大半が南方に落ち延びたのであった(安田喜憲『長江文明の謎』116−7頁)。
堯、舜には「有徳者に位をゆずったという禅譲伝説」があり、「王朝成立以前の氏属制社会の記憶をのこ」すものであった。強力な専制君主が不在の中で、宗教的権威をもった有徳者が指導者に選出されたのである。舜の場合、「四岳十二牧などという地方の有力者たち」(邑の族長)が、「たくさんの候補者について甲論乙駁」した末に「舜こそ適任者としてえらび」(貝塚編前掲書、96頁)だされたのであった。これは、「各氏族の族長が会議をひらいて部族連合の盟主を選挙する制度」(郭沫若[貝塚編前掲書、97頁])であった。これは、まだ夏の専制性が強くはなかったことに基づいていよう。
舜の晩年、漢民族と三苗の争いが再開され、舜は三苗に殺された。苗族出身の楚の詩人屈原は漢民族に押されていく「三苗の悲しみ」を歌った(安田喜憲『長江文明の謎』117頁)。黄帝の玄孫の堯、舜は、「黄帝を継承し、黄河流域で部族連盟の長として多くの『国』を一つにまとめつつあったが、大洪水が起きて天下を混乱させ」、「その大洪水を治め、人望を極めた禹が政治的に台頭し、実権を掌握し」、「その息子の啓が権力世襲を特徴とする最初の王朝『夏』を建てた」(徐朝龍「黄河以前の高度な都市文明」[稲盛和夫・梅原猛編『良渚遺跡への旅』PHP研究所、1995年、60頁)のであった。
かくして、「『夏』の建国は中華国家の原点となり、建国の地である黄河中流域は中国を支配する政治的中枢として神聖なる威光を帯び、歴代の権力者の憧れの聖地になった」(徐朝龍「黄河以前の高度な都市文明」前掲書61頁)のである。
夏の禹王 夏「建国の父」禹は「長江下流域の出身」であり、「黄河流域ではなく、長江下流域の会稽(淅江省紹興市郊外)」で「天下の『万国』を集めて会盟を行なった」(徐朝龍『長江文明の発見』77頁)。また、禹は「黄河流域で大規模な治水事業を行なった」(徐朝龍「黄河以前の高度な都市文明」前掲書67頁)のである。
以後、夏代には、、新石器時代から青銅器時代初期にかけて(紀元前2100年頃-紀元前1500年頃)、中国の黄河中流から下流で、新砦文化(二里頭文化1期)、二里頭文化2期、二里頭文化3期、二里頭文化4期が展開した (宮本一夫『中国の歴史』295頁)。
最初の新砦文化期では、@伊河・洛河(その後の二里頭文化の中心地)と、頴河・汝河(淮河上流)では、土器型式に差異のある事、A頴河・汝河流域の新砦遺跡に三重環濠(1500mの外濠)をもつ城址(北壁924m、70万u)、即ち「大型の集落遺跡」が発見された(宮本一夫『中国の歴史』306頁)。
長江流域の抑圧 一方、紀元前21世紀頃以降、長江中流域における最初の都市文明を誕生させた栄光の石家河文化の担い手集団は、黄河中流域に勃興した夏王朝という強大な政治勢力から執拗な攻撃を受け、ついに崩壊まで追い込まれ」た。
以来、「この地域はしばらく凋落を続け、黄河中流域(中原地方)を舞台に全盛を誇る夏王朝とそれを継いだ殷王朝が王朝交代劇を派手に演じる中、やむをえぬ沈黙を強いられていた」(徐朝龍『長江文明の発見』145頁)のであった。佐野洋一郎氏は、「稲も稲作も『黄河文明流』に改変を受け」「統一中国の権力を支える素材として改変され」つつも、「ことごとく迫害された長江文明とその文化要素の中で、稲と稲作とは、不思議にも統一中国の中でも生き残る」(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』日本放送出版協会、1996年、184頁)と主張する。
王桀 夏王朝は中国最初の統一権力ではあったが、「黄河中流域の一局地を支配した相対的に強い勢力に過ぎ」なかった(徐朝龍『長江文明の発見』角川選書、平成10年、16頁)。故に、「確かに夏王朝時代から黄河中流域を拠点として王権が漸次的に地域的拡大した」が、「長江流域やそれ以外の地域まで一括しようとすることは非科学的」となる(徐朝龍『長江文明の発見』16頁)。
夏王朝最後の王桀は「殷部族の成湯に倒された後」、「良渚文化勢力圏にある『南巣』(安徽省内)」に逃亡した。この事は、「黄河流域における最初の夏王朝」には最初から最後まで「良渚文明の血が流れていた」(徐朝龍『長江文明の発見』77頁)ことを示している。
以後、夏、殷、周から現在までの4千年間、「中国歴代支配王朝が黄河流域に固執」(徐朝龍「黄河以前の高度な都市文明」前掲書61頁)した。それは、この黄河流域の中原は、@「黄河に隣接した都市」であるとともに、「その南側にすぐ南方の大水系が迫」り、「中原と南方諸地域との交通路は直結」され、「中原が南北交通上極めて枢要な位置にあ」り、黄河以北と「恒常的な渡河が可能」あり、A「大行山脈の東側に沿って燕山の南北へとつながる経路」と「西側の晋中盆地にそってオルドス、内蒙古中南部方面へとつながる経路」の「南端」にある「結節点」であり、B「西の黄土地帯」(黄河中流域の仰詔文化)と「東の山東地区」(黄河下流域の大ぶん口文化)との結節点でもあり、C「中国大陸の東西、南北に展開した異なる生態環境が交錯する場所」であり、黄河南岸から淮河上流部にかけての中原地区」は、アワ・キビと米との結節点でもあり(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、67−70頁)、D南方の米資源を収奪しつつ、北方からの匈奴の侵入を防ぐという、中国全土統治上の立地条件があったからであろう。
D 殷王朝
殷王朝は、「三千年以上前に中国の黄河中流域の存在した王朝」であり、殷前期の二里岡文化(前16−前13世紀)と殷後期の殷墟文化(前13−前11世紀)に分けられている(落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』ちくま新書、2008年、15頁)。
@ 殷王朝の誕生
北狄の南下 黄河北方から南下してきた「東北アジアの狩猟民(北狄=殷族)」が殷王朝を樹立した(落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』ちくま新書、2008年、49頁)。この「大興安嶺以東の東北アジアの森林地帯の狩猟民に共通した始祖神話」は、「女神が野外の水浴で、鳥の姿で天から下った神に感じて妊娠する」というものである(落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』50頁)。
一般に鳥を神霊的存在とみることは、「 世界的に多くの例証があ」り、 「国土創成型
・ 始祖神話型(感情型・卵生型・養育型)・霊魂型・霊力型・神の使い型といったタイプ」の神話が見られる(長野一雄「神話から昔話へ」『国文学研究』早稲田大学国文学会編、79号、1983年3月)。この北狄の始祖神話は、感情受胎型(鳥に感情して受胎すること)である。こうした神話的影響のもとに殷が建国されるのである。
殷王朝誕生時期 甲骨文によると、湯が「殷王朝の開祖」で、王都は「亳」と呼ばれた「河南省の鄭州商城」(4平方km)であり、副都西亳は「前代の主都であったと思われる二里頭一帯を管轄下におくことを目的として設営」(松丸道雄「殷」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、117−8頁])された。そして、『竹書紀年』(魏の襄王の墓から出土した竹簡に書かれた歴史書)では、「湯が夏を滅ぼ」すには「29代の王を経て、496年かかった」とあり、故に夏の滅亡年代を496年遡った時期が「殷王朝の創建年代」ということになる(宮本一夫『中国の歴史』308頁)。
「夏殷周三代工程専科組」(現代中国の国家的プロジェクト)は、放射性炭素年代、AMS(加速器質量分析[AMS]によって試料のC14を測定)を使って、@周の武王が殷の紂王を破った年は前1046年、A殷王朝成立年代は前1600年であり、『竹書紀年』によれば夏王朝成立時期は前2070年となることなどを主張した(宮本一夫『中国の歴史』308−9頁)。従って、殷の終焉時期は「おおよそ紀元前1050年」で、殷の始まりは前1600年とみてよく、「殷王朝の前段階が二里頭文化(夏王朝)」であるということになる(宮本一夫『中国の歴史』310頁)。
最初の王朝国家 新石器時代後期では、「巨大な建造物」をつくる「首長権の卓越性」だけでは初期国家といえないから、まだ不安定であり、そうした首長が王権になることはなく、あくまで「首長制社会段階」(宮本一夫『中国の歴史』355−6頁)であった。青銅器時代開始期の二里頭文化期では、夏王朝が成立するが、祭祀などに新しい社会組織原理が認められるが、「その社会維持装置を使った社会組織の範囲は、ほぼ以前からの地域社会の範囲を越えるものではな」(宮本一夫『中国の歴史』358頁)く、いまだに地方首長の勢力が強い。
それに対して、殷王朝は「本格的な初期国家」である。中国の古代王朝は、選挙制からしだいに世襲王制に転化したもの」(貝塚編前掲書、97頁)で、殷王朝も、こうした選挙王政であり、「殷王朝は、商という部族の都市国家である商の邑の族長が、えらばれて華北の諸部族の祖先を統合する王」(貝塚編前掲書、97頁)になった。
そして、「各部族の邑は、それぞれの部族の祖先を祭祀し、邑内をおさめるという自治権を保有」(貝塚編前掲書、97頁)していた。殷代初めでは「殷王は巫師(ふし)の長であり、その下に卜師」がいたが、殷代末期には「王みずから卜をおこなうようにな」り、「王は巫と卜を独裁」するようになった(松本雅明・山口修『黄河のほとり』(『世界の歴史』3、集英社、昭和43年、28頁)。殷王朝が権力をもつようになると、専制色をつよめていったのである。次には、統治システムのうちにこれを確認してみよう。
A 統治システム
殷王族 殷王族は10支族(甲乙丙丁戊己庚辛壬葵)をもち、「交替で王と王妃が選出され」、有力王族(甲、乙、丁)から殷代30王のうち17王が供給された。やがて「王族としてとらえるべき血縁集団」が肥大化した(松丸道雄「殷」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、]136−7頁)。こうした王族の観点からも殷王朝の時期区分を試みると、董作賓氏は、甲骨文字から、T期が武丁、U期が祖庚・祖甲、V期が廩辛・康丁、W期が武乙・文武丁、X期が帝乙・帝辛だとした(宮本一夫『中国の歴史』326ー7頁)。
なお、これを土器様式の観点からとらえなおすと、宮本氏は、河南北部ー河北南部における「土器の各器種を総合した様式的な変化」を基準にして、殷代前期(二里岡下層文化1期(河南省鄭州市)、二里岡下層文化2期、二里岡上層文化1期、殷代中期(二里岡上層文化2期=白家荘期、?北商城前期、?北商城後期)、殷代後期(殷墟文化1期(河南省安陽市)、殷墟文化2期、殷墟文化3期、殷墟文化4期)に分ける(宮本一夫『中国の歴史』295頁)。
社会システム 殷王朝を「支える社会システム」の特徴としては、@「王権を中心とした社会組織」を維持する「青銅彝(い)器による位階システムとしての礼制」があり、A「王権の正当性やその権力」をしめす、「新石器時代の黄河中流域を中心に認められた」犠牲祭祀(異民族・馬・象)が「本格化」し、B「殷王朝期に発展する青銅武器も、武力を統治手段とする王権の維持装置となっている」事などがあげられる(宮本一夫『中国の歴史』333−341頁)。
こうして、「社会組織の維持装置としての宗教や祭祀を吸収し統合化することにより、広域的に諸集団を統合した王権が確立」(宮本一夫『中国の歴史』341頁)し、軍事力がそれを支えた。祭祀と軍事が国家を支えるという「初期国家というにふさわしい段階」となったのである(宮本一夫『中国の歴史』342頁)。
領域の重層構造 当然、支配領域も広大なものとなった。まず殷の影響圏としては、黄河の南岸ぞいの新安県・陝県・霊宝県、渭水流域の陝西省華県・岐山県、黄河下流の南岸域の山東半島のつけ根、北は河北省曲陽まで広がり、「竜山文化のひろがりに比較的近く、その範囲内に含まれている」(貝塚茂樹編『古代殷帝国』みすず書房、昭和33年、372頁)。
殷王朝は、このうちの支配地域に、「大邑(王城)[数百ヘクタール]ー大族邑[数十ヘクタール]ー小族邑[数ヘクタール]ー属邑」という階層構造をつくり、「『大族邑』以下の集落を統合する存在として王城」を設置した。これは、前段階の二里頭文化期の「旧来の文化領域の範囲内での集落相互の階層構造」ではなく、「政治的な統合」、「政治的な意味合いを有した広領域の重層構造に転換」(宮本一夫『中国の歴史』332ー3頁)したものであった。。
この各層の担い手には各地支配者が任命され、地方からの貢納システムが整備された。つまり、王都という観点から殷王朝の支配領域を見ると、畿内と畿外ということになり、畿内には王都である鄭州商城、副都である偃師商城が設けられ、畿外には「河北省北部・中部、山東省南西部、陝西省南西部、山西省北・中部」に位置する侯・伯と呼ばれる地域首長が置かれ、これが「貢納システム」としても機能したのである(宮本一夫『中国の歴史』346頁、354頁)。畿内などの重要地域には王族が任命されたであろう。このように、殷王朝の構造は、「大都市のまわりに中小の都市が従属する新石器時代後期以来の構造を踏襲するものであり、軍事的に傑出した国が他の国を従属させる構造」(平勢隆郎『よみがえる文字と呪術の帝国 古代殷周王朝の素顔』中公新書、2001年、258頁)であった。
松丸道雄「田猟説」によれば、この支配と貢納のシステムは、狩猟と深く関係していた。つまり、当時の田猟(狩猟)は、「王やその命によって各地に赴いた名代が、祭祀の一環として行」われ」、獲物を神に捧げるというものであった。これは、「半径20キロ程度の円内に18地がすべて納まる」範囲であり、「大国たる都市に中小の国たる都市が服属する構造」であったことを示している。殷に服属する「氏族から(大国の都市)物資がまず送られ」、そこから「王都に物資がはこばれた」のであった(平勢隆郎『中国の歴史 都市国家から中華へ』講談社、2005年、194−7頁)。このように、殷王朝のの地方支配が、濃密になされていたのである。
長江流域の支配 殷王朝前期の二里岡文化の時、「長江北岸に近い湖北省黄陂の盤龍城遺跡(南北290m、東西260mの城郭、青銅器鋳造址、副葬青銅器の墓)として知られる殷王朝の植民的拠点が築かれる」。この植民的拠点は、「長江中流両岸地帯の銅資源の入手」が目的であるり、堅固な支配ではなかったようだ。
盤龍城以外にも、上記各層の担い手の殷王朝の植民的拠点のようなものであった。つまり、「二里岡期の王都以外の拠点的な集落」として、河南省焦作の府城遺跡(これのみは殷王朝の畿内的地域の一角)、山西省垣曲の垣曲商城遺跡、山西省夏県の東下馮遺跡、陝西省西安の老牛坡遺跡」が発されていて、老牛坡遺跡以外は、「一辺数百メートル規模の版築による城郭」をもっているのである。しかし、殷王朝の畿内が廃絶に向かうと、二次的地域の「多くの植民的拠点や軍事的拠点」は「在地に根をおろした社会的基盤をもた」ず、「中央政権の動揺とともに変動」し衰退した(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、82−3頁])。
神聖統治による政治安定 殷王の統治が、殷王の神聖性・宗教性で補完されていたことをさらに見てみよう。
殷の王は、「がんらいは卜師・巫師・神官の頭として神につかえ、神の意志を人民にとりつぐ神聖な職務をもつ宗教的君主」(貝塚編前掲書、98頁)であった。「王も王族も本来は神につかえる世襲の神官」(貝塚編前掲書、82頁)であり、「神の石は亀卜によってうらなわれ」、「巫師」でもある宰相によって伝えられた(貝塚編前掲書、82頁)。
やがて、殷王は、「帝という、天上を主宰する神」となり、「豊作の鍵である雨風を自由にし、戦争好きな、・・荒っぽい」神(貝塚編前掲書、81頁)であった。殷王は、「天帝の子、すなわち天子として天帝の命をうけ、地上の世界、すなわち天下を統治すると信じられ」(貝塚編前掲書、81頁)、殷王は、「天の神から命を受けて天の子として地上を統治」(貝塚編前掲書、98頁)した。当時の殷人は、「祖先祭祀を極めて鄭重におこない、それは自らの祖先やさらにその祖である太陽によって自らを守護してくれるよう祈念するためのものであったが、更にこれを超越した、宇宙をコントロールする存在として、帝、上帝ないし上下帝などと呼ばれる至上神の存在を信じ」、「帝は、天候をはじめ、太陽を含むあらゆる自然界における絶対者と考えられていた」(松丸道雄「殷」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、151頁])のである。
そして、殷王は、神聖性を強めるために甲骨で占いを行ったのである。竜山文化期は「獣骨卜だけを用いていた」が、殷代にはこれを受け継ぎつつ「牛骨のほかに亀甲をうらないにつかった」(貝塚編前掲書、89頁)のである。卜いは、「神人交通の方法」であり、「卜兆を示した神は、その卜兆の示すものを事実として実現する責任を負」い、その神意実現を記すことによって「神意の実在を証明し、またこのような神意が王の命ずる貞卜行為を介して実施されたことを示すことによって、終極的には王の神聖性を証示するものとなる」のである。従って、「王の安否」、「王の出入往来」などに関する卜辞は、「王の行動する空間を祓い清める」「儀礼的行為」である。殷では、卜は「神聖な王者の現実支配の重要な形式であった」(平勢隆郎『古代殷周王朝の素顔』276−7頁)のである。
B 農業
では、こうした殷王朝を支えたものとして、いかなる農業がなされたのか。
天水畑作 殷代の黄河中流域は降雨が多かったのだが、「稲作が可能な地域はごく一部であり、現代と同じく黍や麦などの畑作が中心」であり、「甲骨文字にも『黍』や『麦』の文字があり、特に黍の生産には関心が高い」(落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』ちくま新書、2008年、73頁)ものがあった。
しかし、殷代の頃、「農耕地をつくり、集落の場所を定めるときには河川の氾濫原をさけていたため、堤防もな」く、「雨期に河川が氾濫しても、その溢流は両岸のひろい氾濫原をゆるやかに遊水して、水害をうけることもなかった」(中島健一『河川文明の生態史観』校倉書房、1977年、172頁)。黄河流域では、殷代では、まだ農耕による氾濫源活用はできなかった。
農業 殷農業の研究は、既に戦前からなされていた。
郭氏(『中国古代社会研究』)によれば、甲骨文字には、@農産加工品としては、「糸・帛」、「酒・鬯(ちょう、「におい草を入れた酒」)」、A耕稼には、「田・ちゅう(「田のうね」)・禾(か、「穀物の木」)・黍(きび)・粟・来(むぎ)・麦、などがある。当時、禾・黍が重視され、「卜す、黍の年(みのり)を受くるかと」という記録が少なくないのである(貝塚茂樹編『古代殷帝国』みすず書房、昭和33年、195頁)。
呂振羽『殷周時代的中国社会』(1936年11月)は、@殷人は「完全に農業民」であり、殷代は奴隷制社会(200−1頁)であり、A「耒(すき)よりさらに進歩した農具」を使用し、B牛を耕作に使用したとした(貝塚茂樹編『古代殷帝国』202頁)。
胡厚宜『甲骨学商史論叢』(二版、1945年)では、@「殷代は雨が多く、気候は今日より暖か」であり、A日食・月食・星座、植付けの春・収穫の秋、暦を知った「完全な農業民」であり、B「土地は国有で、王がこれを諸侯にわけて封じ」、諸侯は王に「軍事・進貢納税・耕作」の義務を負い、C耒・牛耕があり、「灌漑・施肥も知」り、D主要農産物は、黍・稲・麦であったとされた(貝塚茂樹編『古代殷帝国』203頁)。
董作賓氏は、殷暦法は、晩期には閏月を年末から「年のなかへ適宜入れる」ようになり、「月の大小を作って、月の公転と暦の一月とをあうように」するという進んだものになったとしたが、薮内清氏は、「古い時代の粗放な農業では・・歳末閏でもあまり不都合は感じなかったであろうが、時代とともに農業が進歩してゆくと、非歳末閏(歳末が閏月とは限らないということ)によって季節のいずれをできる限り正しく調節する必要」がおこり、「規則的に大小月をくりかえすといった、そんな計画的な進歩した方法は、殷代にはまだな」かったと主張した(貝塚茂樹編『古代殷帝国』205−6頁)。
内藤戊甲氏は、「殷代では、気候も暖かく降雨は一年中を通じてあり、一般に栽培は非常にやりたすかったので、厳格な季節の知識をかならずしも必要としなかったら、こうした歳末閏でも不都合はなかった」(貝塚茂樹編『古代殷帝国』206頁)とする。内藤氏は、胡厚宜氏の殷代農業論(「殷代農作施肥説」『歴史研究』一期、1955年)の特徴は、農具論ではなく、肥料論にあるとする(貝塚茂樹編『古代殷帝国』222頁)。内藤氏は、殷人は、「人糞を肥料にすることを知っていた」事、大規模工事が可能な殷人には「田の溝ぐらいを掘れない道理がない」とした(貝塚茂樹編『古代殷帝国』224頁)。
胡厚宜『甲骨学商史論叢』(二版、1945年)によると、「殷代の農産物の重要なもの」は、黍・稲・麦・稗となる。しかし、「殷人が稲を栽培したかどうかには、諸説があって難しい問題になっている」。黍が最重要穀物であり、胡氏は稲はこれに次ぐ重要穀物としているが、内藤氏は「稲の存在はやはり疑問」(貝塚茂樹編『古代殷帝国』224−5頁)とした。
奴隷制 こうした研究蓄積を踏まえて、現在殷農業は奴隷によって支えられていたことが明らかになっている。即ち、「殷代社会は同祖同血の集団の肥大化した一氏族(王族)が支配層を構成するとともに、戦争によって獲得した俘虜(僕、羌がおおく、芻。宰、屯なども使用)に由来する奴隷を最下層とするいくつかの重層構造をもっていた」(松丸道雄「殷」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、]140頁)のである。
「黒彝(こくい、人口の数%)は、族長・奴隷主とその家族で構成され、全耕地の五割と全奴隷の七割を所有して奴隷に耕作せしめ」、「労働を蔑視し、騎馬・武芸に励み、所有する奴隷の生産物を無償で取り上げ」た。一方、「白彝」(奴隷)は、曲諾(チュノー、家や若干の土地を持」ち、呷西を持つ者もい」て、収穫物の半分を主家に貢納)、瓦加(ワチヤ。主家への無償労働)、呷西(がし。主家の家内労働)の三階層に分かれる(松丸道雄「殷」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、143−4頁])。
さらに、「殷代の氏族上層は軍事に専従する集団であり、農業生産をはじめ多くの手工業は下層の奴隷の労働によって支えられていた」(松丸道雄「殷」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、144頁])のである。
農事暦 当時、農業灌漑の証拠はなく、「天水にたよる、かなり粗放な農業」であった(松丸道雄「殷」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、145頁])。
農業が始まれば、種蒔・飼育・収穫などのために、「 季節を知らねばなら」ず、「季節を追って}変化する星座に着目する。やがて、「目立つ星に注目しておいて」、日変化(夜明け前、日没後)、月変化、季節変化の特徴を把握してゆくのである(平勢隆郎『中国の歴史 都市国家から中華へ』講談社、2005年、200−1頁など)。
殷代の暦について「甲骨文第五期(帝乙・帝辛時期)の祖先祭祀を利用して復元」すると、@「360日周期の祭祀で、10日ごとにきまった祖先を祭祀」し、A「復元結果(殷の暦と360日周期の祖先祭祀)からすると、冬至をすぎてから一月を始めるという暦だったようであ」り、「この暦は月の満ち欠けに基づいて定め」ていた(平勢隆郎『中国の歴史 都市国家から中華へ』201頁)。「殷の祭祀に関わる文字で、その祭祀の体系を緻密にする役割を果たした」甲骨文字は、「その結果が、暦にまでおよんで、季節との関わりを知るための『節気』の役割をはたすものまでできあがっていた」(平勢隆郎『中国の歴史 都市国家から中華へ』講談社、2005年、202頁)のである。
農耕文化 殷の農耕文化は、在来の粟・黍文化と長江稲作文化の混合でできあがったものであった。
つまり、新石器時代後期の二里頭文化期以降では、「アワ・キビ農耕社会の父系血縁組織を中心とする祖先祭祀や農耕祭祀と、稲作社会の太陽神崇拝が合体」(宮本一夫『中国の歴史』291頁)することになった。この二里頭文化についで現れる二里岡文化では、「青銅彜(イ)器には、饕(トウ)餮(テツ)文と呼ばれる獣面像が鋳だされ、この文様が殷周社会の最も中心的な神的意匠となっていく」が、この饕餮文の源流は「良渚文化の玉器に見られた神人獣面文」にある(宮本一夫『中国の歴史』292頁)。
「殷社会の基本要素である祖先祭祀、供犠、礼楽」などは、「必ずしも黄河中流域の在地的な系譜からのみ生まれたのではなく、アワ・キビ農耕社会と稲作農耕社会のそれぞれの精神文化を融合して形成されたもの」(宮本一夫『中国の歴史』293頁)なのである。
亀甲占いと農業 亀甲は「万物の成就」する秋に採取し、「翌年の春」に「手入れ」され、色・形を基準に選定される。選定亀甲には「血をそそいで清め」の式が行われ、吉日に肉をそぎ取り、腹甲が切り離され、「周辺を整え・・刀で削って磨きをかけ」る。甲を焼いて、亀裂の形で占い、王が卜兆を判断した(白川静「卜辞の世界」前掲書239ー241頁)。
こうした甲骨による王占いの内容は「王朝としての重要な公私の問題全般」にわたり、@祭祀、A戦争、B狩猟や農業など経済生活に関するもの、王および王族の行為と安否の問題に要約される(白川静「卜辞の世界」[貝塚茂樹編『古代殷帝国』みすず書房、昭和33年、243頁])。朝を支える農業は、当然王の統治の重要事項の一つであり、故に農業自体も亀甲占いの対象のひつともなっていたのである。実際、甲骨文には「農作物の豊穣」のみならず、「降雨」卜占が非常に多く、粟が「もっとも普遍的な作物」で、次に「貴族が好んだ」黍の豊作に強い関心が示された(松丸道雄「殷」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、]145頁)。
殷の王室は、「神に供える穀物の生産にも直接関与」し、王室による大規模農業経営が行われ、「王室が多数の労働者を動員して耕作をおこない、王みずから農田を視察し、その収穫を占」(岡村秀典「古代文明への視点」[鶴間和幸編『四大文明 中国』145ー6頁])っていた。
卜辞は「純粋にうらないに関する刻辞」だが、亀裂をさけて後から刻んだ刻辞もあった。これは「神意が実現」されるように願いをこめて刻んだものでもあった(白川静「卜辞の世界」前掲書242頁)。当然、自らも農業を経営する王室は、刻辞に豊作の願いをこめたものもあったであろう。
長江流域の青銅器産業掌握 青銅器は、古代において、「最高の聖性」を具えるのみならず、「最先端技術の象徴」であった(徐朝龍『長江文明の発見』151ー5頁)。故に、青銅器はまだまだ貴重品であり、「貴族層の祭器や一部の工具類に限定されて使用」され、農具にまで使用されることはなかった。実際、殷墟から石包丁(アワ類の収穫時の穂首刈に使用)・石鎌(主にムギ類の収穫時に根元から刈り取るのに使用)などの農具が大量に発掘されている(松丸道雄「殷」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、]145頁)。
こうした青銅器は、@「鉱山をもつ地域の支配勢力」への代償となり、A地方豪族の買収に利用され、B捕虜を土着民から解放するために、中原から「長江中流域」に流出した。即ち、「北方の王朝内部で断続的に起きた政治的、社会的な動乱に伴って職人たちが技術をもって逃げ出してこの長江中流域という新天地に移動」し、「極めて異色」な「祭儀用青銅器のシステム」を造り出し、「山中に棲むさまざまな自然心霊を崇めて」か、山頂・山麓・水辺などに埋納した(徐朝龍『長江文明の発見』151ー5頁)。
この結果、「長江という天然の障壁を盾に、・・洞庭湖を囲む地方において」、彼らは殷周時代に青銅器産業を持ち、「中原地方における殷周式青銅器(宗教的威厳と階級的格式を重視)とは異なり濃厚な地域色(豚・水牛・象・馬を表現している事、銅にょうという楽器)を備え」た、「精巧な作りとユニークな細部表現」の青銅器を造っていた(徐朝龍『長江文明の発見』146−7頁)。殷後期には、四川省成都市の三星堆遺跡の如く、「地方的な青銅彝器生産が可能」となり「地域の自立性が顕著」化した(宮本一夫『中国の歴史』349ー351頁)。
そこで、強大な殷王朝は、国力の基盤となる青銅産業を維持するのに欠かせない長江流域の青銅原料という戦略資源を押さえるために、この中流域に浸透を始めた」(徐朝龍『長江文明の発見』145頁)のである。この殷王朝勢力の進出は、「長期的荒廃が続いていたこの地域に未曾有の文化的な刺激を与えるとともに、栄光の過去をもつ同地域の稲作農業社会に政治的な復活を促す結果となった」(徐朝龍『長江文明の発見』146頁)のである。
家父長制社会 こうした農耕社会を基盤として、新石器時代までに「社会の組織化が次第に進展」し、黄河流域の「アワ・キビ農耕社会」と長江流域の「稲作農耕社会」によって「男系の家父長家族を母胎とした階層社会」へと変化し、世襲的な家父長を生んだ。アワ・キビ農耕社会の黄河流域で「家父長家族制が先んじて出現」(宮本一夫『中国の歴史』354−5頁)したのである。
そして、長江中・下流域に発達した稲作農耕社会では、「太陽信仰が共同体の組織的な基盤となるとともに、階層化社会の中で次第に太陽神を威信とする首長権の確立が認められ」(宮本一夫『中国の歴史』355頁)るようになった。
こうして、華北の農耕地帯に、「富と力の集積がなされて行き、ひとびとは気づいたときには、眼前に厖大な権力のピラミッドが築かれていた」([貝塚茂樹編『古代殷帝国』みすず書房、昭和33年、373頁])のである。
C 遷都
二里岡文化末期、王都が衰退に向かい、「地方の城郭都市も相次いで廃絶」した。殷墟に遷都するまで、「王都をふくむ城郭都市の興廃が領域内の各地で進行」した(岡村秀典「古代文明への視点」[鶴間和幸編『四大文明 中国』144頁)。遷都にともない周辺城郭の統廃合がなされたようだ。『竹書紀年』によると、殷朝の第19代の盤庚が、最後の王都殷墟(河南省安陽市)へ遷都した。
殷墟では、「およそ5キロ四方の範囲に、王や有力者たちの墓地・宮殿・住居のほか、青銅器・骨器・陶器・玉石器を製作する工房が分布」し、「城郭こそ未発見であるが、王宮を中心に従属する多数の族集団が群居する巨大な都市」であり、殷墟中心に「殷王朝の文化領域はおよそ半径600キロの範囲にひろがった」のであった(岡村秀典「古代文明への視点」[鶴間和幸編『四大文明 中国』144頁)。殷の勢力はまだ衰えてはいなかった。
故に、この殷墟は周辺に影響を与えた。つまり、「四川盆地の三星堆文化は、中原の文化を積極的に吸収し、大型の神面や人頭像など特異な青銅器を創造」し、「長江中流域の湖南・江西では、大型の青銅容器や楽器、うわぐすりをかけた灰釉(かいゆう)陶器などが生み出され」、鄭州・殷墟のみならず三星堆・江西の青銅器は「すべて同一の銅材料」を使用している(144頁)。一方、周辺文化が中原に波及し、例えば「湖南・江西の灰釉陶器や南海産の宝貝は、鄭州や殷墟を中心とする中原に運ばれ」、中央・地方の文化交流は「新石器時代とは比べものにならない規模に拡大した」(岡村秀典「古代文明への視点」[鶴間和幸編『四大文明 中国』144頁])のであった。
E 周王朝
殷を滅ぼした周は、「殷のような祖先祭祀の体系を持っておらず、また持とうともしなかった」(平勢隆郎『中国の歴史 都市国家から中華へ』講談社、2005年、202頁)のである。
@ 自然
殷代(紀元前1600−1050年)から西周(紀元前1122−770年)を経て春秋時代(紀元前770−481年)にかけては、「温暖ではあるが乾燥する亜北風性気候期」にあたる。
この時期、中央アジア南部地方や中近東では、「牧草の不足」から「遊牧民がさかんに移動」した。中国でも、「西周の末年に、西北の草原地帯から陝西・山西にわたって気候が乾燥し、旱害が頻発したためか、この地方の原住の異民族の東方移動が始ま」り、「山林から平原に下って、略奪をほしいまま」にした(中島健一『河川文明の生態史観』校倉書房、1977年、163頁)。その後、亜大西洋気候期になり、「冷涼ではあるが湿潤」となる。
A 周王朝の成立
文王ー周の建国 文王は殷に仕えて、周(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)を建国した始祖であり、后は「大国の殷の王女、天の妹」である。「周初の詩の大部分は周の開国の聖王、文王の徳をたたえる篇によって占められ」、その文王は「東へ東へと、・・怒涛のように進撃を開始」した。この東進策は「上帝からの文王にたいする神託によって決定」(貝塚編前掲書、105−6頁)された。
「黄河の要衝」にあたる虞・ぜい両国(貝塚編前掲書、107頁)が境界争いの採決を求めて文王を訪ねる途中、周では農夫が畦を譲り合っているのを見て、「帰国して係争中の田を双方がゆずって間田」とした。文王が直接解決しなかったのは、「文王の聖徳」(貝塚編前掲書、106頁)によるとした。
文王は虞・ぜいを支配下におき、「東進の文字通りの第一歩」が始まり、翌年、「華北平原」に出る?(う)」を征服し、「安陽の殷都にむかって北上する戦略的準備を完了」(貝塚編前掲書、107−8頁)した。この周の急速な拡大の理由は、「殷国の外交政策の怠慢」、文王聖君の存在(「文王を擁して天下を支配する命を天からうけているという一種の選ばれた民という意識」)であるという(貝塚編前掲書、108頁)。
武王ー殷征伐 殷王朝は末期に「数度にわたる遠征」があり、「殷の国力を相当に疲弊」させていて、前11世紀半ば前後、殷の「諸侯の連合軍」(70万人)と、殷に不満をもつ「周(武王)に付き従う多くの諸侯の連合軍(約5万人)」とが「牧野の戦」で衝突し、「敗北を悟った紂王」は自殺した(竹内康浩「西周」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、]176−9頁)。殷都に入城した武王は、「暴虐な紂の悪事を天の上帝に告げ、また天帝の命をこうむって殷にかわって天下を支配することを宣言」(貝塚編前掲書、112頁)した。
周の武王は、宗教的見地から殷の血族統治を容認した。つまり、「周の異族の殷の国家をほろぼしても、殷国の神はほろぼせない。なんとなれば、殷の神は殷の血族の子孫しか祭れないと信じられていたので、殷の神のたたりをおそれて、殷の子孫を殷国家の主としてのこし、殷の祭祀に奉仕させた」(貝塚編前掲書、113頁)のである。これだけではなく、武王側には、父の喪中であること、殷は君主であるという「革命の正当性」への疑義があって、殷一族を抹殺しなかったようだ(貝塚編前掲書、114頁)。
周公旦の治 武王は、西周に帰らず、成周(今の洛陽)にあって、紂王の子に「殷の余衆を統治」させ、旧敵を懐柔して「民を支配」しようとした。しかし、武王が病没すると、幼い太子(後の成王)に代わって、武王弟の周公旦が政治主導権を掌握した(竹内康浩「西周」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、180頁])。
周公は摂政とも思われるが、「殷の王朝では氏族政治の名ごりがあり、兄弟相続がおこなわれたが、周にも兄弟相続の痕跡があ」り、弟が王位を相続したのかもしれない。殷の王族らは「周公が成王を廃して位を奪ったと称して内外呼応して兵をあげ、大きな反乱が勃発」(貝塚編前掲書、116頁)したが、周公は「大軍を動員」してこれを鎮圧した。
周公は、「7年におよぶ”執政”期間ののち、政を成王に返し、群臣の一に戻」り、河南省洛陽に成周が完成すると、ここを拠点に「淮夷や東夷さらには奄(えん)を討」ったのである(竹内康浩「西周」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、]181頁)。周公は、殷遺民をも移して、洛陽に都を建設した。成王を迎えて、新都落成式を挙行し、周公は、「今まで自分がかりに摂政としてとっていた政権を成王に返還し、成王自身による政治がこれからおこなわれることを中国全土に宣言」(貝塚編前掲書、117頁)した。
以後、周には、「先祖の宗廟(びょう)のある西安の都「宗周」と、「中原を統治するのに便利な東の洛陽『成周』」の二都が並存することになり、この二都時代を西周時代というのである(貝塚茂樹編『古代殷帝国』、117頁、貝塚茂樹『中国のあけぼの』川で書房、昭和43年、126頁)。
B 統治方式
周の統治方式 「華北の大平原」の統治方式は「殷の・・部族連合」を踏襲ー「その部族連合はそれぞれ小都市国家をなし、その都市国家がよりあつまって殷の国家組織をつく」(貝塚編前掲書、118頁)り、殷は、外部部族を支配するために「公侯伯子男などという称号を各部族の長」に与えた。
周はこれを模倣し、「同姓の部族(周の一族)の子供たちを華北平原の広い範囲に新しく諸侯として封じ」、「こうして周は中原に新しい植民都市をつくり、これをつうじて東南民族と同化しながら文化的にも政治的にも支配権をつよめていった」(貝塚編前掲書、118頁)。そして、これは、殷の二次的支配地とは異なって、人的関係で安定的支配をめざすものであった。
つまり、「陝西省の関中平野」は「周の畿内的地域」となり、「等質的な西周式土器の分布域」であるが、「西周王朝の副都ともいえる洛陽におかれた成周」、「燕の初対地とされる北京琉璃河遺跡に代表される遠隔地の封建諸侯国の地域」などは「西周王朝の二次的王朝」であり、「共通点の多い」青銅器が発掘される。これら二次的地域は、「殷王朝の時の直轄的な軍事的拠点や資源確保などを目的にした植民地的拠点とは性格が異なって」、「地縁的な人的結合」が広がって、「土地の領有をめざして在地に社会的基盤を建設しようとした封建諸侯国の地域」で「比較的安定」していたのである(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、83頁])。その人的関係は、「君主と家臣とは個人的忠誠関係ではなく、本家と分家の関係でつながれ」、「それは封建的関係というよりはむしろ宗族関係というべき」であり、「周の一族が新しくつくった植民都市国家はすべて周の分家であって、この分家が周の本家に属するという関係」(貝塚編前掲書、119頁)であったようだ。
「文字と呪術の帝国」の中心たる「殷や周」は、「漢字を独占的に管理し、それを可能にする技術を他に漏らさなかった」が、西周においては、「銘文入りの青銅器を諸侯に分与して、一方的ながら漢字世界を広める役割を果し」、「この流出によって多くの諸侯が漢字をみずからのものとし、皮肉なことに、漢字世界は実質的に拡大した」(平勢隆郎『よみがえる文字と呪術の帝国 古代殷周王朝の素顔』259頁)。こうして、本格的な青銅器文化が北東アジアの各地に開花していった([甲元真之『東北アジアの青銅器文化と社会』同成社、2006年)。
宗教政治 殷では、「超人間的神の存在を信じ、神の意志によって政治を行」い、「天命は一定不変で、神をつうじてこれを予知すればよいという徹底的決定論者」(貝塚編前掲書、120頁)であった。つまり、周では、「上帝は語られず、骨卜もおこなわれず、十干信仰はその余裔のみに伝えられ、より理知的な『天』の観念が、周人の中核的な思想となった」(松丸道雄「殷」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、]152頁)のである。
周では、「命は天から与えられてきまっている」が、王が「徳行をつまなくては寿命をまっとうすることはできない」(貝塚編前掲書、120頁)とした。「殷人は神をたっとぶのにたいして、周人は礼をたっとび、施しをたっとび、鬼神を敬してこれを遠ざけ」、「周公、召公たちがその基礎をうちたて、孔子がこれを発展させた」(貝塚編前掲書、122頁)のである。
「殷人は、神はおそろしいものとして、神の意志をやわらげるために犠牲をささげ、神の機嫌をとることに集中したが、周人は、祖先の霊はいい神で、子孫が礼にしたがって祭りをすれば、祖先は子孫にたいして忠言をあたえてくれると考えた。そういう祖先の功業をたたえてうたううたが『詩経』になり、祖先の訓戒が『書経』になった」(貝塚編前掲書、123頁)。これでは、国制論議がおこりようがないのである。
このように、周では礼が重視されたのである。周代、青銅器は、玉器とともに、「王から諸侯・陪臣へ、あるいは諸侯・陪臣からその臣下への賞賜」として与えられ、「その恩寵を祖先神に報告するという形式をと」り、「祭器としての青銅器を媒体として、社会的な秩序関係が維持、再生産され」た。こうした「礼的な規制を基礎とする初期王朝社会の基本的な特徴は、新石器時代後期の良渚文化、石家河文化、山東龍山文化、中原龍山文化などに見られた先行的な諸形態を、さまざまな形で継承し再編成することによって、しだいに確立された」(西江清高「先史時代から初期王朝時代」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、80頁])ものでもあったのである。微妙な相違はありつつも、基本的には同じ先行黄河流域諸文化の帰結でもあったのである。
徳治 「周民族は、西方の高原のなかで、近隣の強い遊牧民族からたえず侵略をうけながら、また一方、殷朝の策謀によって迫害をうけ、艱難のあいだに耐乏生活をおくり、勤倹力行によって、民族の繁栄を成就してきた。この耐乏精神が周の民族精神をなしていた」(貝塚編前掲書、123頁)。つまり、この時期は「北方系の人たちの動きが、北から南へと非常に活発」であったのである(宮本一夫発言[広瀬和雄編『弥生時代はどう変わるか』学生社、2007年、175頁])。
以後の王と徳治如何をみると、君主独裁を原則としつつ、徳治、軍治、法治などに力点が移るにとどまる。
王位継承についても、「周では、王位も父から子への継承が原則となり、いわゆる宋法制として、男子の嫡子のもつ意味が重いものとなる」(竹内康浩「西周」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、]213頁)のである。
2代成王の時、「勢力は遠く揚子江南岸にまで達し」、40年の平和が続いたが、江南地方の前線は維持できなかった(貝塚編前掲書、123頁)。4代昭王の時、武漢地方の征伐中に溺死。儒教思想の「武力にまかせて政治をやったむくい」から、この伝説ができる。
5代穆(ぼく)王の時、宰相が「徳をかがやか」さず「兵をあげて辺境をおびやかすのは先王の道にそむ」くと諌めたが、犬戎(けんじゅう、西北の狩猟遊牧民)を征討するために大軍を起こした(貝塚編前掲書、125頁)。こうした対外的拡張をには大義名分もなく、「結局は拡張した地域を十分に経営しえず失敗に終わ」り、「諸侯との不和」を招いた(竹内康浩「西周」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、189頁])。
末期の10代氏iれい)王は、商工業の発展とともに、貴族とは異なる、「成り上がりの新官僚群」が成長し、軋轢が生じ、脂、は、「都市の商工業者と結託している新官僚を信用」し、旧貴族・農民は困窮した(貝塚編前掲書、127頁)。こうした暴政を不満として国人が反抗したために、脂、は出奔し、前841年に周公と召公の二相が政を行う「共和」の時代という「周王不在」時代を迎える(竹内康浩「西周」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、192−3頁])。
11代宣王は、在位46年の長期政権となった。脂、が出奔14年目に死去したので、子の宣王が擁立されたのである。北での匈奴の侵入、南での東夷の反乱に直面した(貝塚編前掲書、129頁)。「宣王は英明な君主で、有名な宰相尹(いん)吉甫に命じて、北方の匈奴をうちはらい、南方の淮に征討軍をおくってその反乱を鎮圧したので、周王朝の権威はまた回復した」(貝塚編前掲書、129頁)のであった。
「周は部族連合の頭であって、周自身は一つの都市国家をなしながら、同時に他の都市国家の連合の盟主でもあったから、他の都市国家の内政には干渉せず、その自治権を尊重するのが、周の伝統的政策であった」(貝塚編前掲書、130頁)が、「中期以後、脂、の内乱、外的の侵入などのため、窮乏した国家の財政では外敵を防御する費用もまかなえないので、従来のやりかたをあらため、新たに国家の組織をかえて、諸国の人口を調査し、周の民をことごとく王臣として登録し、直接にこれを支配し税を取り立て」、「中央集権主義的政策」を打ち出した(貝塚編前掲書、130頁)。これは、「ある程度の成功をおさめた」が、「伝統的な徳治主義の政策を放棄」したと「一般人民」の非難を浴びた。こうして、「結局は周辺異民族との争いに明け暮れ」て、「そのための負担が周を圧迫し、とくに敗北によって・・王と諸侯との不和を招」いたのであった(竹内康浩「西周」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、194頁])。
12代幽王は、在位11年の短期政権となった。彼は「西周王朝を覆滅させた暗君」(貝塚編前掲書、131頁)であった。紀元前771年、皇后一族は西北の犬戎をそそのかし、愛人に執着する幽王を殺害した(貝塚編前掲書、131頁)。こうして、「総体的に周の力が弱まって」、西周は滅亡するのである(竹内康浩「西周」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、194頁])。
C 農業
天水農耕 「農耕地にたいする人口圧はさほどきびしくなく、なお低い生産力のままで」あり、「地方的権力は、たがいに独立し、抗争をくりかえし」ていた。こうして、「華北地方において、殷・西周から春秋時代までは、河川や溜池を利用する灌漑農法は営農パターンとして普及することなく、きび・あわの畑作物の栽培を中心に、天水農耕が華北地方の支配的な営農様式」(中島健一『河川文明の生態史観』181頁)だった。
農具 「石、骨、貝を使っ」て、掘り起こし(耒、耜など)、木材伐採(斧)、収穫(鎌、刀)の農具があった。この様に、西周期には、殷代に比べて農具にさほどの進歩はなく、農業生産増加は土地の開発にかかっていた(竹内康浩「西周」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、]204頁)。
粟・黍 天水農耕を中心とする当時の農耕技術では、「耐旱性のつよいきびはもっとも栽培に適し」、「新石器時代以降、殷代を経て、華北地方でひろく栽培されていた穀物」(中島健一『河川文明の生態史観』180頁)であった。一般にきびは「ビタミン・ミネラル・たんぱく質を多く含む」健康食品(福島孝「ソルガムの交配法とソルガムーキビの収量性に関する調査」宇都宮大学農学部デジタル報告)であり、「生育期間が短く、乾燥にとても強く、収穫も手間がかからないが、鳥害を受け易い」(日本雑穀協会のHP)という。
きびの収穫率も高く、「五穀(米・麦・あわ・きび・豆)のうちでも、とくに、重視されて、“百穀の長”といわれていた」のである。殷・西周・春秋時代、「治水技術が未発展であったために、河川ぞいの肥沃な氾濫原の低地」を農耕地に利用していたので、「地方的権力の首都やその主要な支配地域は、山間の河谷地帯にそう河岸段丘や丘陵斜面、微高地などが中心をなしてい」(中島健一『河川文明の生態史観』180頁)た。
F 春秋・戦国時代
西周時代の「貴族制的な邑制(都市)国家群の連合体が崩壊」し、やがて春秋戦国時代(紀元前770−221年)を迎え、大小519回の戦争によって、「七つのあい対立する領邦国家群が秦の集権的な郡県制(専制的官僚体制)に統一されて」中島健一『河川文明の生態史観』(182頁)いった。
殷は、「河南を中心とする一帯ににらみをきか」せ、周は、「陝西一帯を首都鎬京(こうけい)により、また河南一帯を副都?邑(らくゆう)により、それぞれににらみをきかせ」ていた。周王朝は、「前8世紀に王都鎬京一帯を放棄せざるを得なくなり、それまで副都の役割をはたしていたらく邑が新たな王都」となり、この後、「秦の始皇帝による天下統一(前221年)までを、春秋時代(前770年ー前5世紀)と戦国時代(前5世紀ー前221年)」が展開した(平勢隆郎『中国の歴史 都市国家から中華へ』25頁)。
この春秋・戦国(秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙が戦国七雄)時代は、農業展開で「農村が各地に出現」し、ついでそこから「都市が各地に出現」し、やがて「その都市(諸侯)をまとめる大国」が出現する過程(平勢隆郎「春秋」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、]222頁)の繰り返しであった。まさに「富と権力」の興亡の典型の時期・地域であった。
@ 春秋時代
a
東周
前772年幽王が、「王朝を支える諸侯間の対立と外族「けんいん」の侵入による混乱」の中で殺され、王都鎬京(こうけい)では携王、副都?邑(らくゆう)に平王がそれぞれ擁立され、周は東西に分裂し、前795年に東周が西周を滅ぼし、新たに秦がこの地を掌握した(平勢隆郎「春秋」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、221頁])。しかし、東周12代宣王の中央集権的軍国政策が行き詰まり、旱害・地震などの天災などで、「周の勢力は衰退し、強力な列国がつぎつぎと実権をとるようになる」(貝塚編前掲書、132頁)のである。
つまり、春秋時代には、「周が河南の『大国』としてなお存在し」ていたが、やがて晋(山西)、斉(山東)、秦(陝西)、楚(長江中流)、呉(長江下流)、越(長江下流)が大国となるのである。春秋時代から、鉄器と官僚によって統治する方法が開始され、戦国時代には、「ある都市が中央となり、滅ばされた都市が地方とな」り、「その中央から地方に官僚が派遣されるようになる」趨勢が「決定的」になる(平勢隆郎『中国の歴史 都市国家から中華へ』25頁)。
b
呉越
『史記』楚世家では、楚王が「わが楚は蛮夷である。中国の爵号や諡とは無関係である」(安達史人『漢民族とはだれか』右文書院、2006年、118頁)とあるように、楚はもとより、秦・呉・越もまた「もとの純粋漢民族すなわち黄河流域人からみれば異民族であった」(安達史人『漢民族とはだれか』107頁)。この漢民族の本流から見れば蛮夷ともいうべきものが、中国覇権を求めて争うのである。
黄河流域から来た呉と土着の越とが、「長江下流域という類似する自然環境と生活形態から、そこの土地を分かち合う呉越民族に強い文化的共通性」が生じたらしい(徐朝龍『長江文明の発見』192頁)。そして、前6世紀、「呉・越の二国が台頭」し、呉は、北方の晋と組んで、楚を牽制しだした(平勢隆郎「春秋」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、233頁])。
海軍 「呉越の人々は河姆渡文化から良渚文明時代以来の生活伝統を踏襲し、河川と湖沼の多い自然環境に適応してとくに水の利用に優れ」「水害を避けるために山麓や高台に住み、河川と湖沼を船による交通に巧みに利用」し、隋唐時代の大運河の下地となったり、「大型船を建造する技術の開発」に成功し、海軍艦隊(呉国では大翼[長さ20数m、戦闘要員91人の巨大戦艦]・小翼・突冐・楼船・橋船から編成、越国では「水上の高速移動と接近戦を重視し、『弋船』という現代の高速艇に当たるような機能をもつ船も開発」)を擁していた(徐朝龍『長江文明の発見』193ー4頁)
中国では巨大戦艦にようる戦闘経験が豊富であった。つまり、「呉国は北の山東半島にある斉国を攻撃するために、数十隻の大型船(軍艦)から編成した『海軍軍隊』を海岸沿いに東中国海を北上させた」(徐朝龍『長江文明の発見』194頁)。
また、呉越も、夫椒(ふしょう)の戦い(紀元前494年)、就李(しゅうり)の戦い(紀元前476年)、干隧(かんずい)の戦い(紀元前482年)では決戦は海戦によることが多かった(徐朝龍『長江文明の発見』194頁)。越の大規模艦隊(「死士8千人、弋船3百隻」)が運河を使って、呉国の都の姑蘇(現在の蘇州)を占領した(徐朝龍『長江文明の発見』194頁)。
青銅・鉄産業 戦乱期を反映して、青銅で殺傷力のある武器(戈、矛、剣、戟、鏃など)がつくられ(195頁)、「呉越では剣を作る優秀な鍛冶屋が輩出」(徐朝龍『長江文明の発見』196頁)した。春秋時代には、鉄が登場した(徐朝龍『長江文明の発見』196頁)。そして、鉄製農具が普及して、犂の発明とともに、除草具も钁・耨・銚などに分化し、収穫具も鎌などに分化し、また治水灌漑の大工事が可能になったのであった(天野元之助「中国農業の展開」『経済史学』7輯、昭和28年)。
「勤勉な民、豊かな経済、発達した経済、成熟した技術、強大な軍事力などは春秋戦国時代の中国において大国として台頭する呉と越の未来を固く約束した」(徐朝龍『長江文明の発見』196頁)
稲作文明圏の復活 鉄製農具が長江下流域の呉越の農業生産力を増加させた。つまり、春秋時代の前8世紀に鉄器の使用が始まり、前6世紀には「鉄製の犂を利用した牛耕」が開始された(平勢隆郎「春秋」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、244頁])。こうした鉄制脳後の普及によって、「水田や畑の様相が一変」し、「鉄器の普及は、水利灌漑網をも整備」させ、「『田の字』型水田」を出現させた。さらに、牛耕が「生産力の向上に・・貢献」した(平勢隆郎「春秋」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、246頁])。
こうして、「西周時代後期から春秋戦国時代までは、呉国、越国、そしてのちに述べる楚国といった長江流域におけるスーパー・パワーが急速に強大化し、黄河流域の中原地方による政治独占と文化支配に挑戦する」時代となった。これは、「稲作文明圏が良渚文明や石家河文明などの崩壊からつづいたおよそ1000年近くの長い低迷を脱出した力の証明であり、経済力においては、粟・小麦作文明圏の中原地方諸国を凌ぐほど劇的に回復した表われでもあ」った(徐朝龍『長江文明の発見』199頁)。
長江文明は、「この時代に再起を果たして本格的な中国文明の一体化に寄与し、激突と融合を経て黄河文明と合体して秦漢文明という東アジア世界の頂点に立つ大文明を形成していった」(徐朝龍『長江文明の発見』200頁)のである。
c
楚
春秋戦国時代の大国楚は、紀元前223年に秦に滅びされるまで800年間、大国として君臨した(徐朝龍『長江文明の発見』205頁)。そして、この楚に山西省の晋が加わって、「中心的位置を占め」、「これに山東省の斉、中原の宋、江蘇省の呉、浙江省の越、陝西省の秦が加わり」、各々抗争した(平勢隆郎「春秋」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、228頁])。
荊楚民族 複合殷王朝の中後期の紀元前13世紀、荊楚民族(江蘇省北西部から黄河中流域に移動し、夏・殷時代に八部族のうちこの荊楚族のみ生き残り、長江中流域に移動)は、「殷王朝と対抗する勢力」として知ら、西周王朝に連携してゆく(徐朝龍『長江文明の発見』206頁)。荊楚の初期王たちは、「『蛮夷』といわれるさまざまな土着民族として合体し、異民族の融和」につとめ、「荊楚民族を中核とした楚国という巨大な『合衆国』の基礎固めに腐心」した(徐朝龍『長江文明の発見』207頁)。こうして形成された楚民族は、「南蛮、東夷、西戎および越などを含む、複雑極まりない混成民族」(徐朝龍『長江文明の発見』208頁)となった。楚は「民族の『坩堝』といわれるほどの複合民族国家」(徐朝龍『長江文明の発見』217頁)
「荊楚民族の南進は黄河民族の文化と長江流域の文化との衝突」であり、荊楚が長江中流域の土着文化に「呑み込まれ同化された」のであった(徐朝龍『長江文明の発見』208頁)。
「石家河文明の崩壊以来の長い停滞の後、長江中流域の江漢平原は・・土地が広く、人がまばらな状況が続いてい」て、「立国初期、荊楚は勢力の拡張と支配基盤の強化をはかるために周囲の土着民族に対して、平和共存、武力合併などの政策で臨む」一方、率先して開発に励んだ(徐朝龍『長江文明の発見』209頁)。
産業 楚では、青銅業の繁盛は「特に農業の発展を刺激し」、「王侯貴族の宗教儀礼や享楽生活における需要を満たし」、多くの武具を生み出し、さらに春秋時代にいちはやく鉄器を農具・武具に使用し始めた。
また「稲作を伴う養蚕業がここにきて長江流域全体で繁盛し」、「養蚕から糸繰、織造、染色、縫製」に「高度な技術が確立」し、「楚国製のシルク製品は黄河流域の諸国」に好まれた(徐朝龍『長江文明の発見』210−4頁)。
国土と人口 楚は、「面積100万平方キロ」「東西五千里といわれる広大な国土」(214頁)であった。。都の「郢都」は16平方キロで、「当時の中国で一、二を争う」巨大都市(徐朝龍『長江文明の発見』215−6頁)、
軍事力のみで「帯甲百万」(217頁)といわれるように、楚の人口のみで1000万人以上はあったろう。戦国七勇(楚のほかに、秦・趙・魏・韓・燕・越)の人口を含めれば、5千万人以上はあったのではないか。世界最大の人口規模であったことは事実であろう。
d 農 業
雑穀作と稲作の接触 新石器時代早期に始まった「華北のアワ・キビ農耕」と「華中の稲作農耕」は、膠東半島で出会うことになる(宮本一夫『中国の歴史』201頁)。淮河以北の新たにイネを受容した華北社会は、「アワ・キビ農耕という華北型畑作農耕を基本」にして、新たにイネを受容して、「多角的な農耕生産」が展開した(宮本一夫『中国の歴史』207頁)。では、どのように両者は膠東半島で出会ったのか。
この点、佐藤洋一郎氏は、「春秋戦国頃(紀元前770年ー紀元前221年)、中国国内の大動乱を境にして、それ(長江文明)は急速に衰退し漢の文化に呑み込まれ同化されていった」と、黄河文明に圧倒され、長江文明が衰退し、呑み込まれたとする。そして、「中国国内の大動乱は多量の難民を発生させ」、「彼らは稲と稲作の技術を携え、四方に拡散してい」き、「その一隊は西にのがれいまの東亜半月弧あたりに落ちつ」き、「東にのがれた一部は海を渡り、または朝鮮半島を経由し日本にまで達し」、「彼らが弥生渡来人として日本に水田稲作をもたらし定着させた」(佐藤洋一郎「ジャポニカ長江起源説」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、182頁])とする。
黄河文明は「当時はまだ豊かであった緑の大地でとれる小麦やアワなどに支えられ、栄華をきわめ」たが、長江中・下流域では稲作が開始され、前3000年までには「中国の現在の稲作地帯のほぼ全域にまで広が」り、「春秋戦国の時代」を迎えた(佐藤洋一郎「ジャポニカ長江起源説」前掲書182頁)。「春秋戦国時代の、二つの文明の対立」の結果、「中国は黄河文明出身の勢力によって統一」され、「長江文明に支えられた勢力は力を失い、やがて歴史から抹殺」された(佐藤洋一郎「ジャポニカ長江起源説」前掲書183頁)。
この春秋戦国時代の背景を気候学的に説いたのが、安田喜憲氏である。氏は、「6300年前に誕生した長江文明は、4200年前(紀元前2200年)に起こった気候の寒冷化によって大きな変節を迎え」、北方の畑作民の南下で、長江中・下流民の稲作漁撈民は雲南省・貴州省の山岳地帯に追われたとした(安田喜憲『長江文明の謎』23頁)。
こうした気候変化が、黄河農耕にいかなる影響を与えたのかを少し見てみよう。西周末期から春秋時代にかけて、華北は乾燥・寒冷化に向かっい、「増産を求めて努力した人々は、・・除草・中耕などが華北での農業にもつ意義を認識し始め」ていった。華北稲作が旱地農法に移行しはじめたのである。「戦国期には施肥技術も発展したが、開墾できる森林や草原が減少すれば、定住して穀物を生産する生活様式を継続するために、施肥が必然」となった。権力者において、「労働力のおよぶ限り広い面積に穀物だけを集中的に作付けることを奨励する『大田穀作』主義の方針が一般化」し、中原では「このような過程が早く進行」したが、「陝西省北部から『黄土高原』にかけては、戦国時代の初めにはまだ、森林や草原そのものの産物に依拠して、つまり狩猟・採集や牧畜によって暮す人々も相当数居住していた」(原宗子「土壌から見た中国文明」[鶴間和幸編『四大文明 中国』195頁])ようだ。結局、施肥や耕地拡大で対応できなかった北方工作民が南下したということになろう。
江南稲作の持続 春秋戦国時代(紀元前770年ー221年)、長江下流には呉越、黄河には斎・魯・宋・晋・秦などがあった。
長江下流域では「良渚文明時代以降には大文明の崩壊の余波に影響されたために一時的な停滞があった」が、「強い底力のある稲作文化は次第に持ち直し、殷末から西周初期頃になると、この地域に経済回復の兆しが見られ」だした。呉文化の担い手は「黄河流域からやってきた『泰伯、仲雍』を開祖」としていたが、越文化(良渚文化とほぼ同じ地域)の担い手は「殷王朝以前の『夏王朝』との関連を強調し、自ら夏王朝の『中興の主』だった少康の子孫で『舜』や『禹』の末裔であると称していた」(徐朝龍『長江文明の発見』190頁)のであった。
「稲も稲作も『黄河文明流』に改変を受け」「統一中国の権力を支える素材として改変され」つつも、「ことごとく迫害された長江文明とその文化要素の中で、稲と稲作とは、不思議にも統一中国の中でも生き残る」のである。「ジャポニカの稲は単にすぐれた食材というばかりでなく、水田の稲作によって、人びとを土地に縛りつけ管理する手段として用いられた」。水稲には、「土木工事の知識と道具、さらには経験を必要」とし、「この性質は、社会を支配する側からみればずいぶん便利」であり、「生産者を土地に縛りつけておければ、国家的管理はずっと楽」だから、「こうした水稲と水田稲作の特性を、黄河文明とその政治的主宰者が見逃すはずはな」く、「水稲と水田稲作は、黄河文明流に修飾される」のである。「原始的だったジャポニカの稲と稲作は、水稲と水田稲作へと進化をとげながら、引き続き東へ西へと拡散」(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』184−5頁)することになった。
稲作連合と畑作連合の戦い やがて、北方の畑作地帯の晋・斉・宋・秦の連合は、「西周時代の周王」を名目上の頂点とし、稲作地帯の南方の楚・呉・越は「西周時代には蛮や蛮夷と称された外族」(2平勢隆郎「春秋」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、28頁)であった。
前597年、泌の戦いで、南方グループを率いる楚が「北方グループすなわち中原の諸侯連合」を打破し、「黄河流域という言葉で代表される稲作地域と長江流域という言葉で代表される稲作地域」が、中国史を動かす主役となった。勝利後、楚は、斉と同盟し、鄭・陳・宋・魯などを従えた(平勢隆郎「春秋」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、231−2頁])。
A 戦国時代
a 統治関係
「春秋時代までは、中央も地方も独立した『国』(都市国家)であり、地方の国から中心となる国に多くの物資が貢納され、中心となる国と地方の国の軍が連合」し、従属国は口頭でなされる命令に「誓いをもってこたえる」(平勢隆郎『中国の歴史 都市国家から中華へ』)というものだった。
しかし、戦国時代には、「複数の中央が存在し」、「新石器時代以来の文化地域を母体」とし、「大国」が中心となる体制ができあがった(平勢隆郎『中国の歴史 都市国家から中華へ』32−5頁)。そして、「戦国時代の領域国家は、それまで大国が支配をおよぼしていた地域を領域化して新たな政治体制をしい」て、「敵対する国家を外族になぞらえ」、東夷、西夷、南蛮、北狄と表現したのである(平勢隆郎「春秋」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、]227頁)。
b 戦国時代以降の勧農政策
勧農政策 戦国時代、「いかに国の経済を豊かにし、いかに軍事的に強くなるか」を軸に「各地で政治改革運動が起こった」(平勢隆郎「戦国」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、297ー8頁])のである。
魏の文公(在位は前442−前395年)のもとで、李?(りかい)が、「地力を尽く」し「農業生産力の増加」を説いた。また、西門豹(せいもんひょう)は、「灌漑事業を進め、魏が領有していた山西省西南部は豊か」になった(平勢隆郎「戦国」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、298頁])。
秦の孝公の時、商鞅は「覇道を説いて用いられ、変法に着手し」、@法の厳守のために連座制をしき、A「二人以上の男子をもつ家について税を倍にして分異させ」(農業生産力、財政力があがる)、B「軍功ある者には功に応じて爵を与え・・公の一族でも功なきものは族籍を剥奪」して、「爵制的秩序を確立して軍功の有無を明確にし」た。秦は、「この変法を経過して、・・国力は目に見えてつき、・・強大な軍事的圧力を諸国に加え」た(平勢隆郎「戦国」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、]298頁)。
秦は、黄河流域の諸国に遅れて成長したが、巴蜀(長江上流域)と楚(長江中流域)の稲作領域を占領し、米作生産力増加によってやがて天下を統一することになる。
治水事業 さらに、この時期の大規模な堤防・灌漑治水事業をみてみよう。
まず、堤防事業から見れば、戦国時代(紀元前480年ー222年)に、「大きな堤防を積極的に築造するようにな」り、農民は「肥沃な氾濫原」に進出するようになり、その結果、堤防決壊の被害は大きいものとなった。この点、長江(流水量は黄河の20倍、流域面積は黄河の3倍)では、「中・下流流域には大小の河川や湖沼が多く、それらが氾濫のさいの溢流をプールすることができたので、堤防が決潰したり、氾濫による異常な災禍をこうむることはすくなかった」(中島健一『河川文明の生態史観』172ー3頁)のである。
次に、灌漑事業には軍隊が動員されることもあった。つまり、「戦国以降における治水事業のいちじるしい発展は・・常備軍(庶民出身の歩兵)の組織が不可欠の前提条件をなし」、「常備軍の歩兵たちが治水・灌排水工事の労働力として使役」(中島健一『河川文明の生態史観』185頁)されているのである。
さらに、紀元前486年、春秋時代の呉王は、「北方の斉や魯」を威圧するため兵員・軍糧を輸送するために「江淮の間」に溝を掘ったが、「このような水路が開かれると、陂水(溜池)だけでは十分に灌漑できなかった黄河流域の耕地に、灌漑運河としても利用されるようになった」中島健一『河川文明の生態史観』(186頁)のである。この渠水の利用で、「畑地への灌水ばかりでなく、華北地方の沖積平野にひろく分布していたアルカリ土壌の洗塩(脱塩)のための排水にもきわめて有効にはたらき、耕地の生産性をいちじるしくたかめ」ることになった。この脱塩と「流泥の肥効」で、「低地地方の水稲作(うるち)では10倍、畑地では5倍」の高い生産性をあげた(中島健一『河川文明の生態史観』186頁)。
こうして、集権的権力を背景に、「戦国から秦漢時代のあいだに、黄河の中・下流地方には、堤防がつぎつぎに築造されて、河川ぞいの氾濫原に新しい農耕地がひらけ、多くの集落も形成されて」(中島健一『河川文明の生態史観』187頁)きた。
黄河地方では、「濁流は凸型の天井川から溢れ」て、水文的条件は「もっとも苛酷」であったが、黄土の氾濫原は肥沃であり、灌排水で作土塩害を防げれば、「耐旱性のあわ・きびを天水農耕で栽培しうる畑作の臨界地帯」(中島健一『河川文明の生態史観』202頁)であった。
農書 戦国末編集の『呂氏春秋』士容論六篇のうち「上農」(農業を重視する理由)・「任地」「弁土」「審時」(後3篇は「農業技術の原理を説いている」)は、「戦国時代末期の農業に関する記述」(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、426頁])である。
この「上農篇」では、「農民尊重が為政者にとって重要なのは、『農』に従事する民の精神が純朴になり支配者に忠実になるからだ、と記し、『農本』主義が主張され」、「穀物作重視の経済政策が、思想としても成熟し、『大田穀作』主義が民衆の精神コントロール面にまで波及していった」(原宗子「土壌から見た中国文明」[鶴間和幸編『四大文明 中国』196頁])ことが看取される。
c 人口増加
春秋時代の都邑人口は「多くても千戸をこえるもの」は少なくない。戦国時代には「1万戸(1戸平均5−10人)以上の都市」が増加した。斎の首都「臨し」は中国最大の都市(南北4km、東西4km)で、城内戸数は7万戸である。
こうして「春秋末から戦国時代」に「華北地方では人口が顕著に増加し、その分布地域もひろが」り、「この人口増加は、新しい農耕地の開拓をうながし、灌排水農法の技術的進歩をもとめて、統一的な支配権力へのみちをひらいた」(中島健一『河川文明の生態史観』184−5頁)のであった。
この人口増加によって、軍隊編成規模も巨大化した。つまり、春秋時代には「各都市に徴発された軍隊が単位となって戦闘したため、その犠牲者も数がしれていた」が、戦国時代になると、領域国家の軍隊規模となって、犠牲者のみで2万人・3万人となり、長平の戦い(前260年、秦と趙の決戦)では趙兵40万人が穴埋めにされたという(平勢隆郎「戦国」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、291頁])。
d 平和・秩序の思想
農業生産力が増加し、その富をめぐって戦争が頻発すると、愛・平和・秩序を説く宗教・哲学駕起きてくる。西アジアではキリスト教、、南アジアでは仏教、東アジアでは儒教などがおこったのである。
戦国時代の中国では、「政治思想が政治上有用」であり、「その理論が君主の権威発揚に大きく貢献」したので、「戦国時代には、多数の思想家が輩出した」のである。そうした政治思想の流れは、「春秋末の孔子(前552−前479年)から説き起こすことができ」、『論語』には仁(「人間が共通にもつ他人に対する親愛の情」。孟子が重視)と礼(「仁という徳が外面に現れたもの」で、「習慣風俗、文物制度のような社会秩序として客観化」。これを進めると法となる。子夏・荀子・韓非子が重視)が説かれたのであった(平勢隆郎「戦国」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、300頁])。
一方、老子は、「以上の政治思想とは次元の異なる議論を展開」し、道を説いた(平勢隆郎「戦国」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、301頁])。
以後については、農業に限って要約的に述べ、江南地域の米作が中国を支えていたことを確認しておこう。
G 以後の中国農業
@ 秦
人民支配 前408年に新税制で「穀物を単位に徴収する」とし、前384年に「非農耕民の慣習であった殉死を禁止」し、前383年に「都を雍城(陝西省鳳翔県)からより東方の櫟陽城(陝西省富平県の東南)に移し、前375年には最初の戸籍をつくり、「伍」制度(五戸の連帯責任制度)を実施した。これらは、「より高い農業生産力を基礎にしながら、人民をより強力に支配していくための行政改革のさきがけ」(太田幸男「秦」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、333頁])となった。
商鞅「変法」 前359年、商鞅は第一次変法(@5戸・10戸の連帯責任制、A組織内の悪事の告発命令、B民家の別居、C軍功者の叙爵、D農業奨励、E公族から無軍功者の排除、F爵位・官位に応じて田・宅を占有、G有功者のみ富者になることを容認)を推進した。Dは、「本業たる農業(男性の仕事)・機織(女性の仕事)に精をだして穀物や織物を多く生産した者は人頭税を免除し、末の利(商業利益)を追求したり、怠けて貧しい者は、その妻子を没収して官奴婢とする」ということである(太田幸男「秦」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、335頁])。
この変法の成果があがり、前352年、商鞅は自ら率兵して隣国「魏」の都「安邑」を討って成果をあげ、天下に「変法の実効」を示し、前354年、第二次変法を実施した。@父子兄弟の別居の徹底(第一次Bの徹底)、A「小都、郷、邑、聚と呼ばれる小集落を併合して」県をつくる事、B「阡陌(農道)を開いて、田となし、疆(さかい、地方)に封じる」と、地方の土地を開拓して農民に分配すること、C度量衡の統一などを打ち出した。これによって、西方の後進国秦は、「貴族による邑支配を基礎とした体制」を「君主による、官僚を媒介とした新たな地域支配の体制」に転換し、強国にのしあがろうとした(太田幸男「秦」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、336−7頁])。
灌漑 恵文王、武王、昭襄王三代で、「秦が国力を充実させるとともに、戦国七雄のなかにあって領域を飛躍的に拡大させて頭角を現わしてきた」(太田幸男「秦」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、337ー8頁])。荘襄王の執政呂不韋は、「韓から入秦した水利技術者鄭国」を使って、「鄭国渠」の開削に従事し、「水と洛水を結ぶ約120キロの用水路」を完成した(太田幸男「秦」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、338頁])。
鄭国渠に沿う地方はアルカリ性の強い荒地だったが、「この渠水による灌漑と排水により、脱塩されて肥沃」になり、27万haの「あわ・きび・おおむぎ」を主作物とする農耕地が開拓された(1中島健一『河川文明の生態史観』88−9頁)。この鄭国渠によって、秦は富強となり、天下統一の財政的基礎を築いた(中島健一『河川文明の生態史観』189頁)。
始皇帝 前230年、荘襄王の子の政は、行政を指導していた李斯の戦略に基づいて、「六国併合の戦争」が開始し、前221年天下を統一し、王に代わって、皇帝と称した。皇とは「煌」字に通じ「ひかりかがやく」という意味であり、帝とは、天にいる上帝(天帝)を意味した(太田幸男「秦」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、339頁])。
前210年始皇帝が死去すると、前209年に、辺境守備の過大負担を嫌って、中国史上最初の農民反乱ともいうべき陳勝(河南省の貧農)・呉広の乱がおき、一時的に河南省で国をたてた。これは失敗したとはいえ、「各地の農民に勇気を与え、旧六国の貴族たちを強く刺激し」、各地で反乱がおきた(太田幸男「秦」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、348−9頁)。
A 前漢
前202年劉邦は功臣らの上書で皇帝に即位し、ここに漢帝国が成立し、「関中が要害の地であるうえに肥沃で広大な盆地をなし、渭水による水運の便がある」として、都を洛陽に定めた(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、]365頁)。
武帝の農政ー耕地拡大 武帝時代に、戦国時代から各国君主によって進められていた「治水・灌漑・漕運の事業」が「大規模に被害」をもたらしだした。特に前132年の黄河大氾濫で「広大な地域に被害をもたらし」、武帝は10万以上の人民を動員して復旧をはかったが、20年以上も決壊箇所の修復はできず、「被害地域には繰り返し飢饉がおそった」のであった。そこで、前109年、武帝自ら決壊箇所に赴き、大工事で堤防を完成させ、「北方に向けて二本の運河を開いて河水を分流させ」「黄河下流地方は安寧を得」た(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、415頁])。
武帝時代、漕渠(遡航に困難な渭水に並行して開削した運河。3年間の大工事で前126年に開通。航行期間が半減し、同時に、灌漑用水路としても重要)、汾水(汾河)、洛水(洛河)、水(河)、黄河などの水を引く「灌漑用水路が多く掘削」され、耕地拡大が推進された。前95年、白公建議で、「水と渭水を結ぶ」ために、全長80kmの白渠が開削された(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、416頁]。
さらに、この白渠開削の意義と問題を見てみよう。当時、水では、放牧のために森林を伐採した場合、「大雨が降れば、土に落ちた家畜糞も水に流れ込」み、且つ放牧圧(「一定以上の傾きの傾斜地では、放牧された家畜自身が歩いたり草を食んだりする圧力」)で、「これまた表土が流失し草が減少し」、「水の泥はますます増える」(原宗子「土壌から見た中国文明」[鶴間和幸編『四大文明 中国』197−8頁])という畜害に直面していた。そこで、水を水源とする「白渠の灌漑」を行って、、「水の泥を肥料として利用」するものであった。ただし、それは「水上流地域の表土流失」の停止という限界に制約されていた。また、白渠路付近に建設された恵渠の灌漑地では「地下水系を破壊するほど多量な水を灌漑によって供給」したためか、「塩類集積が発生」していた。それに対して、「上流が緑の下草や樹木に覆われていれば・・河川は清水」となり、「耕地化前から土地に存在していた」土壌養分が灌漑によって供給されることになる(原宗子「土壌から見た中国文明」[鶴間和幸編『四大文明 中国』198頁])。
ともあれ、これによって4500頃(約80万アール)の農地が灌漑された(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、416頁])。
武帝の農政ー旱地農法 戦国以来、諸侯は、「食糧需要の増加分を新耕地の開発によってまかなおうと、広い平原の森林や草原を開墾しつくし」、かつ「アルカリ地を灌漑して利用」した。武帝期に「このような新耕地開発志向が、極点に達し」、匈奴対応のために「西北へのオアシス灌漑をともなう屯田を試み」た。しかし、武帝末年にこの耕地拡大による食糧増産方針が転換され、「単位面積当りの収穫量を増大」させようとする。つまり、田千秋丞相が、「『代田法』という旱地農法」を打ち出した。これは、「牛の引く大型犂でウネタテし、ウネ間のミゾに播種器でアワやキビを播き、芽が伸びたら雑草を取りながらウネを崩して根元に土をかけ」、「再生アルカリ化した土壌」も生き返らせた。「除草・中耕に大変な手間がかかる」「労働集約的」農法であった(原宗子「土壌から見た中国文明」[鶴間和幸編『四大文明 中国』199頁])。
この灌漑方法から旱地農法への転換の意義は、これで「『ろう土』成立の基礎条件が生まれ」、「以後2000年・・・緑を維持・確保」したというところにある(原宗子「土壌から見た中国文明」[鶴間和幸編『四大文明 中国』199ー200頁])。
さらに、武帝期以降、儒家思想が「主要な政治思想」となり、『孟子』では「どの男性も妻をもち、百畝程度の耕地を耕し五畝程度の敷地の家に住む」として、「小家族による農村生活の理想像」が打ち出された。戦国時代には「政治的主張に過ぎなかったこのプラン」が「穀物生産中心社会を目指す方針」に伴って、この小農基軸農業の「実現可能な地域が増加」した。しかし、夫は「農作業に精力のすべてを注ぎ込んで疲れ果て」、妻が「衣食の世話をせねば」ならず、夫妻の過酷な労働を強いられていたことが留意される(原宗子「土壌から見た中国文明」[鶴間和幸編『四大文明 中国』200−1頁])。
昭帝の農政 昭帝(在位前87−前74)のもとで、趙過(捜粟都尉)は代田法を普及させ、「農業生産の向上に努めた」(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、420頁])。前85年、貧民への種子・食糧の貸し出しと返済の免除を行ない、全国的な一年間の田租を免除した。これは、「武帝末年の恤民政策を引き継いだもの」で、「儒家思想を背景にしたもの」(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、419頁])であった。
農具 春秋末期頃に「鉄製農器具の使用と牛耕」が始まったが、秦漢時代には「この両者は全国的に普及し、それによって農業生産力は大きく前進」(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、420頁)した。しかし、「広大な領域と複雑多岐な地形をもつ統一帝国内では、依然として周代初期以来の木・石製農具で家畜を使わない農業がおこなわれていた地域も多く存在し、生産力の発展は極めて不均等」であった。「秦漢時代の鉄製農具で中心をなすものは犂と総称される牛耕用のスキ」であり、「製鉄技術の発展によって帝国内のほぼ全域で使われていた」。V字型スキ先(「三角形の尖頭形で後ろ幅は大きいもので20−25センチあり、木製の柄を押し込んで使用」)は、「戦国時代から多く見られ」たが、「全鉄製スキ先」(「先端だけでなくスキ先全体が鉄製」)は「漢代になって主流」となった。スキ以外の手動用農具として、「スコップ(?)、シャベル(?)、クワ(钁)、除草用クワ(鋤)、カマ(鎌)、除草用のヒラスキ(銭)」などがある。牛耕に使うには、「牛の鼻を穿って環をはめ、そこに手綱を通」す必要があった(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、425頁])。
畑作 「任地」「弁土」「審時」からうかがえる「前漢中期ぐらいまでの畑作地帯の農法」は、華北黄土地帯の耕作法(「土地は何度も耕起し、土を細かく」し、畝とみぞをつくり、「種子を散播」し、生育後には「密生した苗を間引い」たり「雑草を除去」する)などが述べられている(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、426頁])。『漢書』食貨志には代田法が記述され、「『呂氏春秋』に記される農法をいちだんと改善」させている(427頁)。しかし、犂の製造は全国農民にまで普及していなかったなどのために、この最先端農法は「一部の有力豪族の耕地」にとどまったようだ(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、]428頁)。
前漢末の氾勝之(成帝時代に議郎・御史として三輔の地で農業技術の指導に従事)著『氾勝之書』では、冒頭に耕種・収穫を述べ、以下に「作物別にその栽培法が記され」、区田法(「独特の多収穫農法」)・溲種法(そうしゅほう。種子の処理方法)が述べられる(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、428頁])。前者の区田法には、?播(みぞまき)法と区播(あなまき)法の二種があり、これによって、「播種量の500倍の収穫がある」とされたが、この両法は良田の集約農法であり、「よほどの篤農家でなければ実施、継続させることが困難であったとも思われ、現実にこの方法が普遍化した形跡はみあたらない」ものであった(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、429頁])。
稲作ー火耕水耨 「長江流域のいわゆる華中地方(秦嶺山脈と淮河を結ぶ線以南)の水田耕作の方法」については、諸文献「火耕水耨(すいどう)」と言われる。応劭(おうしょう)・鄭玄(じょうげん)の解説によると、「春先に前年生じた雑草を焼き、そのあとへ水を注いで稲を播種」し、「稲苗と雑草の古株から生じた芽が同時に生長し、7−8寸になったところで雑草を刈りふたたび水を入れると、雑草は水面下で死に、稲苗のみが生長する」というもので、「極めて原始的な水田耕作法」である(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、429頁])。
これは、休閑法による水田農法であり、また「苗代から移植する田植はおこなわれず水田に直播きする方法」であり、さらに「温暖な地方の稲作に応じて雑草除去に重点がおかれている」のである(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、429頁])。これは、中国では「南北朝末期ぐらいまでこの方法が存続」(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、429頁])したようだが、東南アジアでは、「今日なお・・行われる極めて生産力の低い稲作」(飯沼二郎「世界農業史上における古代パンジャープー早地農業の位置について」『人文学報』20号、京都大学人文科学研究所、1964年)である。火耕水耨とは、「江南の粗雑な稲作農法を黄河中流の人たちが軽蔑の意をこめて記述したもの」で、「休閑、直接播種のいわば原始的稲作農法という見方が有力」(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書頁]23頁)である。
では、当時の華北の稲作とはいかなるものであったろうか。それは、「川の湾曲部、泉水の豊かな地域など、極めて限られた場所でのみおこなわれ」、『氾勝之書』では、「華北の水稲について」は、「冬至後110日ぐらいで播種すること、水田の水深を均等にするよう注意すること、一枚の水田の面積を広くしすぎないよう注意すること」などが述べられている(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、429ー430頁])。華北では「浅く湛水して手で除草し、しばしば水を落として根際に日照をあて、苗を強健ならしめ」、この限りでは「生産力は・・はるかに高い」(飯沼二郎「世界農業史上における古代パンジャープー早地農業の位置について」『人文学報』20号、京都大学人文科学研究所、1964年)のである。
B 後漢
秦漢帝国の形成によって、「皇帝を頂点とした専制統一帝国が誕生し、皇帝に臣属する官僚によって多くの小農民を個別人頭的に支配する古代的な体制ができあがった」(鶴間和幸「新・後漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、505頁])のである。
光武帝の建武年間(25−56年)には東夷諸民族はあいついで朝貢のために使節を都洛陽や楽浪郡に送ってきた」(鶴間和幸「新・後漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、532頁])。しかし、「安帝(106−125年)の後半期になると中国東北の辺境では朝貢関係がゆらぎはじめ、軍事的には不安定な情勢に変わっていく」。さらに、「桓帝・霊帝の時代(147−189年)の末になると、後漢王朝内部の政治的混乱とあいまって楽浪郡も東夷諸民族の動きを制御できなくなり、後漢帝国が周辺諸民族の政権を冊封するという東アジアの国際関係もゆらぎはじめた」(鶴間和幸「新・後漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、534頁])のであった。
C 五胡十六国時代
紀元後317年に北方異民族侵入で「中国文明の担い手だった黄河中流域の支配階級」たる「晋の元帝」らが、「江南の新天地」に移動し東晋を樹立し、「江南に、これまでの黄河文明の遺産を根づかせていった」(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書、24頁])。
江蘇省江南部・浙江省北部の江南デルタ(10万平方キロの平坦地。中央部では太湖周辺の低湿地)開発は困難であった。最大の問題は、まず「凹地になっている太湖低湿部の水をどのように海に排水するかということ」であり、次いで「水路や堤防をいかに設けて水稲栽培に適した環境を作るかということ」(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書頁]27頁)であった。黄河流域の中原と始期がほぼ同じなのに、「江南文化が、みるみる遅れをとった一つの理由は、この低湿地の開発が」困難だったからであろう(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書、27頁])。
4、5世紀、五胡十六国時代の「中国の政治的動乱」に見舞われたが、これは倭国の相対的独立性を促し」た(樺山紘一「日本人のなかの江南文明」[樺山紘一編『長江文明と日本』福武書店、1987年、235頁)。
6世紀中頃、山東省で成立した『斉民要術』(中国北魏の賈思?[かしきょう]が執筆)において、華北の旱地・畑作農業は完成に達する」(熊代幸雄「乾地農法に於ける東洋的と近代的命題」宇都宮大学農学部学術報告特輯、1号、昭和29年)。
この『斉民要術』は、「中国において初めて詳細な水稲栽培法」を記したものである(飯沼二郎「世界農業史上における古代パンジャープー早地農業の位置について」『人文学報』20号、京都大学人文科学研究所、1964年)。その『斉民要術』の伝える稲作は、「主として淮水ないし泗水流域の農法を示」しており、具体的には、@水稲田は1年おきに休閑されることが望ましいが、これは除草を主目的とし、かつ、この休閑年の草は雨期に犂込まれて緑肥とされる事、A直播である事、B湛水の深さを均一にするために、田面に湛水し、10日後に陸軸を曳く事、C播種は陰暦3月を上時とし、4月上旬は中時、中旬は下時とする事、D種籾は水選して5昼夜浸種し、それから藁苞につつんで3昼夜おき、幼芽の2分ほど出たときに播く事、E種苗7−8寸のころ除草し、その後、乾燥をみはからって適宜灌漑する事などというものである(飯沼二郎「世界農業史上における古代パンジャープー早地農業の位置について」)。
そして、『斉民要術』は華北の土壌構造を踏まえた耕作法式について、「秋耕は深耕(雨水を蓄える)が、春耕・夏耕は浅耕(水分蒸発を防止)が望ましい」と結論づけている。現在も、「華北の農民は『斉民要術』と全く同じような防旱耕作体系を応用」しているが、華北より寒冷の黒龍江省などの東北では、「春の整地を行わず、逆に土層の解凍により形成された高湿期をうまく活用するために、適期に迅速に播種する防旱耕作体系を成立させ」(周暁明「中国東北畑作地帯における機械化旱地農法之展開ー黒龍江省を中心に」『農業経営研究』東京農工大学、39巻1号、2001年6月)ている。
D 隋
こうした開発が徐々になされて、「隋の煬帝の南北大運河」があり、この開発による江南稲作で唐が「十世紀まで命脈を保」っていたのである(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書、28頁])。
低湿地開発は「唐代なかばではまだそれは目立ったものではなかった」が、10世紀初め、「杭州を都とした銭氏の呉越国が、この(江南の)地方を領有し、低湿地開発の画期を作った」。「周囲を強国南唐に囲まれ、貿易と経済力に活路を求めた呉越は、その一環として米穀生産の増強につとめ」、「蘇州に営田軍と称される、堤防の構築、水路の整備と水田管理を専門とする7、8千人の4部隊が常駐」した、この営田軍は、「東方の微高地には水門をそなえた排水溝」を整備したり、低湿地には「堤防をきずき縦と横に一定の間隔をおいた水路が通され」、排水と灌漑の作業に従事したようだ(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書、28頁])。
E 唐・宋
大沢正昭氏は、「栽培条件を選ばない赤米種が唐中期以降に普及し、太湖周辺のフロンティアに多く植えられ」、「こうした品種は宋代でも確認できることから、蘇州では宋代に至っても粗放な水稲作が行われていたとする」(「宋代『河谷平野』地域の農業経営について」『上智史学』34、1989年)。しかし、市村導人氏が、「宋代時代を江南農耕技術(水稲作と畑作との関連技術)の確立する時期」(市村導人「宋代江南における農耕技術史の方法的検討」『仏教大学大学院紀陽』文学研究科篇、第39号、2011年3月)と見ているように、宋代には、稲作の生産性は増加したのである。
宋代(960年以降ー)、「華北の政府がその維持、補修を等閑に付したため、デルタの水田とクリーク網は大半が荒廃」した。にもかかわらず、米の生産力は高かった。例えば、11世紀前半、蘇州知事の范仲淹(ちゅうえん)は、蘇州の課税地3万4千頃(けい。1頃=4.6畝)で収穫高は7百万石以上(平年作で1畝あたり2−3石[300kg−450kg]。換算基準が不明なので単純比較はできないが、これが事実とすれば、現在日本の反当り収量は530kg[1畝当り収量は53kg]となるから、かなりの高生産性となる)としている。11世紀、江南デルタの「豊田水利」策(「治水、治田」策)が推進され、「蘇州河のような幹線排水網」が整備された(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書、29頁])。
北宋(960−1127)の後半、「湖田、囲田、?田(うでん)など水利田と総称される低湿地を堤防、水路、水田に組合せて区分し、稲田面積を拡大する事業が次から次へと史料にあらわれるようになる」(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書、29ー30頁])。さらに、「唐宋時代、ないしは宋元時代」には、江南での「二毛作(ベトナム南部を原産地とする生産性の高い早稲チャンバ米)の普及時期として想定しうる」(市村導人「宋代江南における農耕技術史の方法的検討」『仏教大学大学院紀陽』文学研究科篇、第39号、2011年3月)ようになる。なお、江南では、「水田であった耕地」に栽培するのは麦のみならず、「地力回復」のために粟・豆・雑穀・棉・油菜が含まれ」ていることも留意される(市村導人「宋代江南における農耕技術史の方法的検討」)。
この結果、宋代以後、「デルタ地帯の米は、単なる税金の域をはるかにこえて、膨大な数の軍隊と官僚はじめ都市の人達を養なう商品作物として十分採算のとれるものとな」り、士大夫(官僚)は「財力と権力」を使って、特に「収益の多い江南デルタ」稲作に投資した。この頃には、「田植えに始まる高度の稲作農法の確立、微妙な地域差に適応した品種の選定、あるいは微高地や堤防における桑樹の栽培とそれに伴う絹織物業の発展とも互いに相関関係を持つ」(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書、30頁])ようになった。
こうして、唐半ばから宋に至る2百年間、「江南デルタは、少なくとも米穀、絹織物生産などで、一躍先進地域に躍り出」て、「蘇州と杭州を焦点とした楕円形の中に入る江南デルタが中国の台所をまかなうようにな」った(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書、30頁])。
中国の4河川(黄河、済水、淮水、長江))を結び、各地方の貢ぎ物を「古帝王の都である山西の冀州に送る」べく、隋煬帝の完成した大運河が黄河中流域と長江下流域を結んだ。「十世紀宋代以降の中国は『運河の時代』と名付けることさえできる」(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書、45頁])のである。
当初は「南朝江南の文化は、北の総合力にまだ及ばなかった」が、「隋唐三百年の間」に、「漢民族の活躍の範囲は江南から更に南へ、そして長江中流の各支流域へと拡大」(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書、48頁])した。
1127年、「女真族の金に追われ、開封を中心とした黄河中流域の漢民族が、大挙して江南に逃れた『靖康の変』は、4世紀の晋室南渡に匹敵する大事件で、これを境に北と南の文明の優劣は決定的に逆転してしま」(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書頁]49頁)った。「こののち黄河中流域が異民族の支配領域に入ると、大運河、とくにベン河の管理がおろそかになり、ごく短期間のうちにそれは閉塞して使いものにならなくなってしま」(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書、50頁])った。
F 元・明・清
元 13世紀後半、元は都を北京に造営し、「江南の米穀や物資」を確保するために、会通河(山東半島のつけ根にある河川と湖沼をつなぎ、大清河[華北大河である海河の支流]、黄河を横切って臨清県で御河[華北の五大河川の一つ]に連絡」)という運河を開いた(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書、50頁])。
明・清 明、清時代、江南の米が華北を支えた。明代、「整備された漕運制度によって大運河を北京に運ばれた米糧は四百万石を上下し、最も多い年で5百万石をこえる程度だが、江南の米はその80%に達している」(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書、50頁)のである。
同時に、「スペイン領アメリカおよび日本からの銀の輸入」で交易が拡大され、「早熟性の稲の導入で二期作」が可能となり、「厳しい気候に耐え」る馬鈴薯とトウモロコシが、ヨーロッパ経由で中国にもたらされ、それらが米作の困難な地域に栽培されて、中国の「収穫と生存可能性を莫大に増大」させ、中国では、このおかげで、「農耕地は2倍、人口は3倍」(Schffer,Lynda
Noreen.1989."The Rise of the West:From Gupta India to Renaissance
Europe."New York:Columbia University East Asia Institute.p.13)になったとも言われる(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』140頁、209頁)。ここに「換金作物の栽培、手工業、および交易の増大」がもたらされ、二大手工業(「揚子江下流域、上海近郊での綿工業と絹産業の拡大」)と「米(「上流域の安徽、江西、湖北、・・湖南、四川の各省で栽培された米」が河川で運搬)とその他の換金作物(綿花、藍、タバコ、陶器類、紙」など)」が、「この地域を中国の最も豊かな地域」とした。揚子江流域以外でも、「中国の南部(広東など)および南東部では、換金作物栽培と手工業が複数の地域で拡大」したのである(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』210頁[Wong,R.Bin.1997.China Transformed:Historical
Change and the Limits of European Experience.Ithaca:Cornell University
Press])。
「国都北京、大運河、江南という図式は清朝とて同様であったが、19世紀に入ってヨーロッパ列強の中国進出がすすみ、海運が盛行するにつれて、決定的ともいうべき打撃をおうむ」り、「現在までの間、華北と江南を貫通する意味での運河の役割は消滅した」(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書、50−1頁])。
G 中国穀倉たる江南
江南政府 明初を例外として、江南政府は「地方政権か、北方民族に追われて江南半壁の地に逃れてきた国家」にすぎなかった(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書、52頁])。
遊牧民族だった周囲の異民族は、「豊かな中国世界に対して、とかく彼らの唯一の利点である武力を使い、掠奪攻撃に走りたがる」が、「短期決戦では成功しても、長く支配を続けるためにさまざまの困難が横たわ」り、結局、異民族は「漢文明に毒され、堕落して武力を失ない消えていく」のであった(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書、52−3頁])。
10世紀以降江南優位となっても、異民族に対抗しうる場所は、長安、開封、北京と、「黄河以北の地であることが望ましかった」(前掲書53頁)。
こうして、「長江文明の経済と文化が、黄河文明の政治、軍事と大運河でつながれ、ここに中国の統一王朝がはじめてできあがる図式となる」(梅原猛「中国史のなかの長江」[前掲書53頁])のである。
長江流域は、「歴史上、経済的・文化的に中国を支えてきたのみならず、今日でも中国全人口の四割ほどを養っている」(徐朝龍「黄河以前の高度な都市文明」前掲書61頁)のである。
長江稲作の波及 吉田敦彦氏は「長江の稲作の文化は優に第五の大河文明」であり、「黄河文明がむしろ長江の文明に大きな影響を受けた」(シンポジウム「アジアの稲作文化」[諏訪春雄・川村湊篇『アジア稲作文化と日本』雄山閣、平成8年、186−7頁])と指摘する。
そして、氏は、「長江の中流域で始まった稲作が下流に伝播し、その一方でまた北にも伝播し・・、むしろ河姆渡とか羅家角よりも、より古い時期に淮河の中流域でもって行なわれるようになった。それが淮河・黄河の地方の斐李崗文化と呼ばれている。雑穀栽培を行なっていた文化と結び付いて、こちらは稲作とともに畑でもって雑穀も栽培する。長江の方では専ら稲作が行なわれるという二つの特徴の分かれたものとなった」(同上書187頁)とする。
8 人 口
以上、中国は、黄河流域のの雑穀作、長江流域の米作によって、世界有数の人口を擁し、内部に飢饉・戦乱・災害などの諸問題を抱えつつも、高い文化をもつ「豊かな」」地域になったことを確認しておこう。
春秋戦国 既に春秋時代の都邑人口は「多くても千戸をこえるもの」は少なくないが、戦国時代の一特徴は「大都市が勃興し」、「1万戸(1戸平均5−10人)以上の都市」が増加した。斎の首都「臨し」は中国最大の都市(南北4km、東西4km)で、城内戸数は7万戸もあった(貝塚茂樹編『古代文明の発見』『世界の歴史』1、中央公論社、昭和42年、172頁)。
こうして「春秋末から戦国時代」に「華北地方では人口が顕著に増加し、その分布地域もひろが」り、「この人口増加は、新しい農耕地の開拓をうながし」(中島健一『河川文明の生態史観』184−5頁)たのであった。
秦 前246年始皇帝が13歳で即位したが、当時の人口は2000万人に達した(貝塚編前掲書、216頁)。このうち、秦の北辺の治安維持のため、総兵力30万で匈奴を追い払い、長城を築き(206頁)、周辺地に罪人・商人を植民させた(貝塚編前掲書、207頁)。
前漢 『漢書』地理志によると、前漢末2(平帝元始2)年の戸口調査では全国戸数1223万3306戸、口数は5959万人(鶴間和幸「新・後漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、546頁、湯浅赳男『文明の人口史』新評論、1999年、142ー3頁)に達し、世界一の大人口国家が誕生した。
漢代には、専制権力はこの6000万人の人口を「宗法制度をテコに組織化」し、「また、その常備の兵力をくわえて、治水・漕運・灌排水のための土木工事にたえまなく強制的に投入」したのである(中島健一『河川文明の生態史観』202頁)。
『漢書』地理志によると、首都長安県の人口は、前漢(前162)年、24万2000人であった(太田幸男「前漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、439頁])。
後漢 後漢時代には、財政・軍事上の必要から、年一回8月に戸口調査が実施されるようになった(鶴間和幸「新・後漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、545頁)。
57(明帝建武中元2)年には、「後漢交替期の動乱」で427万1634戸、2100万人に激減した(鶴間和幸「新・後漢」[松丸道雄ら編『中国史』1、先史ー後漢、546頁])。以後、88年(後漢)に4400万人、144年(後漢順帝建康元年)に994万6919戸、口数4973万0550人(『冊府元亀』)、156年(後漢)に6400万に回復している。
184年、都市貧民らが理想社会を目指して黄巾の乱を起こし、後漢政府軍に鎮圧されたが、「食料の生産がストップしたため、中国の総人口は5千万人台から、一挙に5百万人足らずに激減した」(岡田英弘『倭国の時代』ちくま文庫、2009年、59頁)とも言われる。ただし、「この数字には江南の呉が含まれていない」(岡田英弘『倭国の時代』ちくま文庫、2009年、288頁)から、実際の激減度合いはこれより緩いであろう。
以後、280年(西晋武帝康元年)245万9804戸、口数1616万3863人(『晋書』食貨志)、582年(隋文帝開皇2年)360万戸(『冊府元亀』)、606年(隋)5400万人(湯浅赳男『文明の人口史』新評論、1999年、143頁)となる。しかし、隋唐交替の時に人口は激減し、705年(唐)3700万人となるが、755年(唐)には5300万人に回復している。
宋代に1億人 しかし、唐末五代には「激変」が想定され(湯浅赳男『文明の人口史』144頁[聶家格「五代人民的逃亡」『食貨半月刊』4−2、飯田茂三郎「中国歴史之戸口統計」『食貨半月刊』4−11])、宋の統一後の972年(大祖開宝5年)309万504戸に減少する。1014年(北宋)5700万人に回復し、低湿地の活用や「成育期間が短くて二毛作が可能なチャンバ米の導入」(湯浅赳男『文明の人口史』157頁)などにより、1103年(北宋)に1億2700万人、1193年(南宋+金)に1億2000万人となって、中国人口は12世紀には1億人を超えたのであった。世界史上最初の1億人国家の登場である(前述の通り、紀元前にインドは人口1億人に達していたという推計があるが、これは疑わしい)。中国の北部と中南の人口比率は、前漢(1世紀)の9対1、唐の玄宗時代(8世紀)の6.5対3.5を経て、この北宋中期(11世紀)には3.5対6.5に逆転し、農業生産力・・人口増加力が中国中南に移動して、て現代に及ぶのである(湯浅赳男『文明の人口史』159頁)。
1290年(元)8600万人、1393年(明)6100万人と、 「宋帝国の崩壊以後、明に至るまで」、人口は減少する。だが、前述の通り江南米作展開・漕運制度整備・新大陸作物普及などで、1751年(清)には2億100万人と、18世紀には2億人越えとなるのである。以後も、1812年(清)3億5100万人、1851年(清)4億1800万人と増加していった。1953年(人民共和国)には5億1800万人、1975年(中華人民共和国)には7億2500万人と、増大した(以上、湯浅赳男『文明の人口史』新評論、1999年、143−4頁)。
中国人口増減の特徴 陳達氏は、以上の中国人口増減の特徴について、@「新王朝が始まって、平和と秩序が維持されるに至ると出産が死亡を越えることによって人口は順調に増大し、文化も分業によって展開して長足に進出する」が、「人口密度が高まり、農業技術の革新や改良の欠如とあいまって大衆の生存競争がしだいに激しくなってい」き、Aにもかかわらず「人口はなおも増大を続け、サイクルの頂点である飽和点に達する」と、「過剰人口の徴候である悪疫や飢餓が頻発して生活がだんだんと耐えがたいものとなり、革命や戦乱が勃発」し、「一時的に人口圧を和らげ、新王朝を成立させ」、「人口はなお減少を続け、ついにサイクルの底辺である最低のレヴェルに達」し、Bこうして新旧サイクルが繰り返すが、「それぞれのサイクルは数百年の長さを持」ち、その長さは「主に王朝没落直前の人口圧の程度によって決まる」(文明の人口史144−5頁[Ta Chen,Population in Modern China,American Journal of Sociology,July 1946,PartU,p.4])と指摘する。
そして、陳氏は、この人口変動は、@「中国史全体を通じて、文明は農業発展の限界を越えることはできなかったし、その農業技術にも革命的変化を経験することはなかった」事、A「歴史を通じて農業はほとんど改良されることがなかった」事という二条件によって、「農業はほとんど改良されなかった」とする。彼によれば、サイクルのいくつかのピークは、@紀元2年(前漢)5950万、A742−756年(唐)5290万、B1098−1100年(北宋)4300万、C1573−1600年(明)6060万、D1933年(中華民国)4億6000万だとする(『文明の人口史』146頁)。米作では「農業はほとんど改良されなかった」としても、或いは王朝交代・戦乱があったしても、中国の米作・雑穀作はこれだけの巨大人口を維持できたということが重要である。
湯浅氏は、「中国文明の特徴は短期間での人口の急増」とともに、自然的要因(水、旱、風、霜、蝗害)と社会的要因(権力争奪戦、内部の反乱、外族の侵入)で「一瞬にして人口の崩落が繰り返されたところにある」(『文明の人口史』148ー152頁)と指摘する。そして、湯浅氏は、重農主義、「抑商政策が商人を中心とする都市中間階級を法的に保護したり育成してこなかった」ことによって、「この漢族人口の爆発的増大と食物生産の飛躍的増大とが直接的に対応しているところが中国文明の特徴」(『文明の人口史』157頁)とした。
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